聞を借りたくなった。あいにく前の人はぐうぐう寝ている。三四郎は手を延ばして新聞に手をかけながら、わざと「おあきですか」と髭のある男に聞いた。男は平気な顔で「あいてるでしょう。お読みなさい」と言った。新聞を手に取った三四郎のほうはかえって平気でなかった。
 あけてみると新聞にはべつに見るほどの事ものっていない。一、二分で通読してしまった。律義《りちぎ》に畳んでもとの場所へ返しながら、ちょっと会釈《えしゃく》すると、向こうでも軽く挨拶をして、
「君は高等学校の生徒ですか」と聞いた。
 三四郎は、かぶっている古帽子の徽章の痕《あと》が、この男の目に映ったのをうれしく感じた。
「ええ」と答えた。
「東京の?」と聞き返した時、はじめて、
「いえ、熊本です。……しかし……」と言ったなり黙ってしまった。大学生だと言いたかったけれども、言うほどの必要がないからと思って遠慮した。相手も「はあ、そう」と言ったなり煙草を吹かしている。なぜ熊本の生徒が今ごろ東京へ行くんだともなんとも聞いてくれない。熊本の生徒には興味がないらしい。この時三四郎の前に寝ていた男が「うん、なるほど」と言った。それでいてたしかに寝ている。ひとりごとでもなんでもない。髭のある人は三四郎を見てにやにやと笑った。三四郎はそれを機会《しお》に、
「あなたはどちらへ」と聞いた。
「東京」とゆっくり言ったぎりである。なんだか中学校の先生らしくなくなってきた。けれども三等へ乗っているくらいだからたいしたものでないことは明らかである。三四郎はそれで談話を切り上げた。髭のある男は腕組をしたまま、時々下駄《げた》の前歯で、拍子《ひょうし》を取って、床《ゆか》を鳴らしたりしている。よほど退屈にみえる。しかしこの男の退屈は話したがらない退屈である。
 汽車が豊橋《とよはし》へ着いた時、寝ていた男がむっくり起きて目をこすりながら降りて行った。よくあんなにつごうよく目をさますことができるものだと思った。ことによると寝ぼけて停車場を間違えたんだろうと気づかいながら、窓からながめていると、けっしてそうでない。無事に改札場を通過して、正気《しょうき》の人間のように出て行った。三四郎は安心して席を向こう側へ移した。これで髭のある人と隣り合わせになった。髭のある人は入れ代って、窓から首を出して、水蜜桃《すいみつとう》を買っている。
 やがて二人のあい
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