調子は少しもなかった。
三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。どっちにしても、よし子から軽蔑《けいべつ》されそうである。三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。
椽側から座敷を見回すと、しんと静かである。茶の間はむろん、台所にも人はいないようである。
「おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか」
「まだ帰りません。近いうちに立つはずですけれど」
「今、いらっしゃるんですか」
「今ちょっと買物に出ました」
「あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」
「どうして」
「どうしてって――このあいだ広田先生の所でそんな話がありましたから」
「まだきまりません。ことによると、そうなるかもしれませんけれど」
三四郎は少しく要領を得た。
「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」
「ええ。お友だちなの」
男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。
「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」
「ええ」
話は「ええ」でつかえた。
「あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」
「私? そうね。でも美禰子さんのお兄《あに》いさんにお気の毒ですから」
「美禰子さんのにいさんがあるんですか」
「ええ。うちの兄と同年の卒業なんです」
「やっぱり理学士ですか」
「いいえ、科は違います。法学士です。そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども、早くおなくなりになって、今では恭助《きょうすけ》さんだけなんです」
「おとっさんやおっかさんは」
よし子は少し笑いながら、
「ないわ」と言った。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽《こっけい》であるといわぬばかりである。よほど早く死んだものとみえる。よし子の記憶にはまるでないのだろう。
「そういう関係で美禰子さんは広田先生の家《うち》へ出入《でいり》をなさるんですね」
「ええ。死んだにいさんが広田先生とはたいへん仲良しだったそうです。それに美禰子さんは英語が好きだから、時々英語を習いにいらっしゃるんでしょう」
「こちらへも来ますか」
よし子はいつのまにか、水彩画の続きをかき始めた。三四郎がそばにいるのがまるで苦になっていない。それでいて、よく返事をする。
「美禰子さん?」と
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