が知らないんだからしようがない。先生、ぼくの事を丸行燈《まるあんどん》だと言ったが、夫子《ふうし》自身は偉大な暗闇だ」
「どうかして、世の中へ出たらよさそうなものだな」
「出たらよさそうなものだって、――先生、自分じゃなんにもやらない人だからね。第一ぼくがいなけりゃ三度の飯さえ食えない人なんだ」
三四郎はまさかといわぬばかりに笑い出した。
「嘘《うそ》じゃない。気の毒なほどなんにもやらないんでね。なんでも、ぼくが下女に命じて、先生の気にいるように始末をつけるんだが――そんな瑣末《さまつ》な事はとにかく、これから大いに活動して、先生を一つ大学教授にしてやろうと思う」
与次郎はまじめである。三四郎はその大言《たいげん》に驚いた。驚いてもかまわない。驚いたままに進行して、しまいに、
「引っ越しをする時はぜひ手伝いに来てくれ」と頼んだ。まるで約束のできた家がとうからあるごとき口吻《こうふん》である。
与次郎の帰ったのはかれこれ十時近くである。一人ですわっていると、どことなく肌寒《はださむ》の感じがする。ふと気がついたら、机の前の窓がまだたてずにあった。障子をあけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜《ひのき》に、青い光りがさして、黒い影の縁が少し煙って見える。檜に秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸をたてた。
三四郎はすぐ床《とこ》へはいった。三四郎は勉強家というよりむしろ※[#「彳+低のつくり」、第3水準1−84−31]徊家《ていかいか》なので、わりあい書物を読まない。その代りある掬《きく》すべき情景にあうと、何べんもこれを頭の中で新たにして喜んでいる。そのほうが命に奥行《おくゆき》があるような気がする。きょうも、いつもなら、神秘的講義の最中に、ぱっと電燈がつくところなどを繰り返してうれしがるはずだが、母の手紙があるので、まず、それから片づけ始めた。
手紙には新蔵《しんぞう》が蜂蜜《はちみつ》をくれたから、焼酎《しょうちゅう》を混ぜて、毎晩杯に一杯ずつ飲んでいるとある。新蔵は家の小作人で、毎年冬になると年貢米《ねんぐまい》を二十俵ずつ持ってくる。いたって正直者だが、癇癪《かんしゃく》が強いので、時々女房を薪《まき》でなぐることがある。――三四郎は床の中で新蔵が蜂を飼い出した昔の事まで思い浮かべた。それは五年ほどまえである。裏の椎《しい》の木に蜜蜂が二、三百匹ぶら
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