坐《すわ》った。そうして苦《にが》い顔をしながら、医者に騙《だま》されて来て見たと云った。医者に騙されたという彼は、固《もと》より余を騙すつもりでこういう言葉を発したのである。彼の死ぬ時には、こういう言葉を考える余地すら余に与えられなかった。枕辺に坐って目礼をする一分時《いっぷんじ》さえ許されなかった。余はただその晩の夜半《やはん》に彼の死顔《しにがお》を一目見ただけである。
その夜は吹荒《ふきす》さむ生温《なまぬる》い風の中に、夜着の数を減《へ》して、常よりは早く床についたが、容易に寝つかれない晩であった。締《しま》りをした門《かど》を揺り動かして、使いのものが、余を驚かすべく池辺君の訃《ふ》をもたらしたのは十一時過であった。余はすぐに白い毛布《けっと》の中から出て服を改めた。車に乗るとき曇《どん》よりした不愉快な空を仰いで、風の吹く中へ車夫を駈《か》けさした。路は歯の廻らないほど泥濘《ぬか》っているので、車夫のはあはあいう息遣《いきづかい》が、風に攫《さら》われて行く途中で、折々余の耳を掠《かす》めた。不断なら月の差すべき夜《よ》と見えて、空を蔽《おお》う気味の悪い灰色の雲が、明らさまに東から西へ大きな幅の広い帯を二筋ばかり渡していた。その間が白く曇って左右の鼠《ねずみ》をかえって浮き出すように彩《いろど》った具合がことさらに凄《すご》かった。余が池辺|邸《てい》に着くまで空の雲は死んだようにまるで動かなかった。
二階へ上《あが》って、しばらく社のものと話した後《あと》、余は口の利けない池辺君に最後の挨拶《あいさつ》をするために、階下の室《へや》へ下りて行った。そこには一人の僧が経を読んでいた。女が三四人次の間に黙って控えていた。遺骸《いがい》は白い布《ぬの》で包んでその上に池辺君の平生《ふだん》着たらしい黒紋付《くろもんつき》が掛けてあった。顔も白い晒《さら》しで隠してあった。余が枕辺近く寄って、その晒しを取《と》り除《の》けた時、僧は読経《どきょう》の声をぴたりと止《と》めた。夜半《やはん》の灯《ひ》に透《す》かして見た池辺君の顔は、常と何の変る事もなかった。刈り込んだ髯《ひげ》に交る白髪《しらが》が、忘るべからざる彼の特徴のごとくに余の眼を射た。ただ血の漲《みな》ぎらない両頬の蒼褪《あおざ》めた色が、冷たそうな無常の感じを余の胸に刻《きざ》んだだけであ
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