まり事情を逐一《ちくいち》打ち明けて御母さんに相談した。ところが女はなかなか智慧《ちえ》がある。
 御母さんの仰《おお》せには「近頃一人の息子を旅順で亡《な》くして朝、夕|淋《さみ》しがって暮らしている女がいる。慰めてやろうと思っても男ではうまく行かんから、おひまな時に御嬢さんを時々遊びにやって上げて下さいとあなたから博士に頼んで見て頂きたい」とある。早速博士方へまかり出て鸚鵡《おうむ》的|口吻《こうふん》を弄《ろう》して旨《むね》を伝えると博士は一も二もなく承諾してくれた。これが元で御母《おっか》さんと御嬢さんとは時々会見をする。会見をするたびに仲がよくなる。いっしょに散歩をする、御饌《ごぜん》をたべる、まるで御嫁さんのようになった。とうとう御母さんが浩さんの日記を出して見せた。その時に御嬢さんが何と云ったかと思ったら、それだから私は御寺参《おてらまいり》をしておりましたと答えたそうだ。なぜ白菊を御墓へ手向《たむ》けたのかと問い返したら、白菊が一番好きだからと云う挨拶であった。
 余は色の黒い将軍を見た。婆さんがぶら下がる軍曹を見た。ワーと云う歓迎の声を聞いた。そうして涙を流した。浩さんは塹壕《ざんごう》へ飛び込んだきり上《あが》って来ない。誰も浩さんを迎《むかえ》に出たものはない。天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。余はこの両人の睦《むつ》まじき様《さま》を目撃するたびに、将軍を見た時よりも、軍曹を見た時よりも、清き涼しき涙を流す。博士は何も知らぬらしい。



底本:「夏目漱石全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年10月27日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:LUNA CAT
2000年9月11日公開
2004年2月26日修正
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