が加わらないはずはないわけであるが、書き手が節操上の徳義を負担しないで済むくろうとのような場合には、この興味が他の厳粛な社会的観念に妨げられるおそれがないだけに、読み手ははなはだ気楽なものである。
そういう訳で、自分は多大の興味をもってこの長い手紙をくすくす笑いながら読んだ。そうして読みながら、こんなに女から思われている色男は、いったい何者だろうかとの好奇心を、最後の一行が尽きて、名あての名が自分の目の前に現われるまで引きずっていった。ところがこの好奇心が遺憾なく満足されべき画竜点睛《がりょうてんせい》の名前までいよいよ読み進んだ時、自分は突然驚いた。名あてには重吉の姓と名がはっきり書いてあった。
自分は少しのあいだぼんやり庭の方を見ていた。それから手に持った手紙をさらさらと巻いて浴衣《ゆかた》のふところへ入れた。そうして鏡の前で髪を分けた。時計を見ると、まだ七時である。しかし自分は十時何分かの汽車で立つはずになっていた。手をたたいて下女を呼んで、すぐ重吉を車で迎えにやるように命じた。そのあいだに飯を食うことにした。
なんだかおかしいという気分もいくぶんかまじっていた。けれども総体に「あの野郎」という心持ちのほうが勝っていた。そのあの野郎として重吉をながめると、宿をかえていつまでも知らせなかったり、さんざん人を待たせて、気の毒そうな顔もしなかったり、やっとはいってきたかと思うと、一面アルコールにいろどられていたり、すべて不都合だらけである。が、平生どの角度に見ても尋常一式なあの男が、いつのまに女から手紙などをもらってすまし返っているのだろうと考えると、あたりまえすぎるふだんの重吉と、色男として別に通用する特製の重吉との矛盾がすこぶるこっけいに見えた。したがって自分はどっちの感じで重吉に対してよいかわからなかった。けれどもどっちかにきめて、これを根本調として会見しなければならないということに気がついた。自分は食後の茶を飲んで楊枝《ようじ》を使いながら、ここへ重吉が来たらどう取り扱ったものだろうと考えた。
七
そこへ宿から迎えにやった車に乗って、彼はすぐかけつけてきた。彼に対する態度をまだよく定めていない自分には、彼の来かたがむしろ早すぎるくらい、現われようが今度は迅速《じんそく》であった。彼は簡単に、早いじゃありませんか、今朝《けさ》起きたらすぐ上がるつもりでいたところをお迎えで――と言ったまま、そこへすわって、自分の顔を正視した。この時はたから二人《ふたり》の様子を虚心に観察したら、重吉のほうが自分よりはるかに無邪気に見えたに違いない。自分は黙っていた。彼は白足袋《しろたび》に角帯で単衣《ひとえ》の下から鼠色《ねずみいろ》の羽二重《はぶたえ》を掛けた襦袢《じゅばん》の襟《えり》を出していた。
「今日《きょう》はだいぶしゃれてるじゃないか」
「昨夕《ゆうべ》もこの服装《なり》ですよ。夜だからわからなかったんでしょう」
自分はまた黙った。それからまたこんな会話を二、三度取りかわしたが、いつでもそのあいだに妙な穴ができた。自分はこの穴を故意にこしらえているような感じがした。けれども重吉にはそんなわだかまりがないから、いくら口数を減らしてもその態度がおのずから天然であった。しまいに自分はまじめになって、こう言った。
「実は昨夕もあんなに話した、あのことだがね。どうだ、いっそのこときっぱり断わってしまっちゃ」
重吉はちょっと腑《ふ》に落ちないという顔つきをしたが、それでもいつものようなおっとりした調子で、なぜですかと聞き返した。
「なぜって、君のような道楽ものは向こうの夫になる資格がないからさ」
今度は重吉が黙った。自分は重ねて言った。
「おれはちゃんと知ってるよ。お前の遊ぶことは天下に隠れもない事実だ」
こう言った自分は、急に自分の言葉がおかしくなった。けれども重吉が苦笑いさえせずに控えていてくれたので、こっちもまじめに進行することができた。
「元来男らしくないぜ。人をごまかして自分の得ばかり考えるなんて。まるで詐欺だ」
「だって叔父《おじ》さん、僕は病気なんかに、まだかかりゃしませんよ」と重吉が割り込むように弁解したので、自分はまたおかしくなった。
「そんなことがひとにわかるもんか」
「いえ、まったくです」
「とにかく遊ぶのがすでに条件違反だ。お前はとてもお静さんをもらうわけにゆかないよ」
「困るなあ」
重吉はほんとうに困ったような顔をして、いろいろ泣きついた。自分は頑《がん》として破談を主張したが、最後に、それならば、彼が女を迎えるまでの間、謹慎と後悔を表する証拠として、月々俸給のうちから十円ずつ自分の手もとへ送って、それを結婚費用の一端とするなら、この事件は内済にして勘弁してやろうと言いだした。重吉は十円を五円に負けてくれと言ったが、自分は聞き入れないで、とうとうこっちの言い条どおり十円ずつ送らせることに取りきめた。
まもなく時間が来たので、自分はさっそくたって着物を着かえた。そうして俥《くるま》を命じて停車場《ステーション》へ急がした。重吉はむろんついて来た。けれども鞄《カバン》膝掛《ひざか》けその他いっさいの手荷物はすでに宿屋の番頭が始末をして、ちゃんと列車内に運び込んであったので、彼はただ手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》にプラットフォームの上に立っていた。自分は窓から首を出して、重吉の羽二重の襟と角帯と白足袋を、得意げにながめていた。いよいよ発車の時刻になって、車の輪が回りはじめたと思うきわどい瞬間をわざと見はからって、自分は隠袋《かくし》の中から今朝《けさ》読んだ手紙を出して、おいお土産《みやげ》をやろうと言いながら、できるだけ長く手を重吉の方に伸ばした。重吉がそれを受け取る時分には、汽車がもう動きだしていた。自分はそれぎり首を列車内に引っ込めたまま、停車場《ステーション》をはずれるまでけっしてプラットフォームを見返らなかった。
うちへ帰っても、手紙のことは妻《さい》には話さなかった。旅行後一か月めに重吉から十円届いた時、妻はでも感心ねと言った。二か月めに十円届いた時には、まったく感心だわと言った。三か月めには七円しかこなかった。すると妻は重吉さんも苦しいんでしょうと言った。自分から見ると、重吉のお静さんに対する敬意は、この過去三か月間において、すでに三円がた欠乏しているといわなければならない。将来の敬意に至ってはむろん疑問である。
底本:「硝子戸の中」角川文庫、角川書店
1954(昭和29)年6月10日 初版発行
1994(平成6)年3月10日 改版21版発行
入力:柴田卓治
校正:しず
1999年9月9日公開
青空文庫作成ファイル:
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