云う、「初めから腰を据《す》えようなどというのが間違っている、ペダルに足をかけようとしても駄目だよ、ただしがみついて車が一回転でもすれば上出来なんだ」、と心細いこと限りなし、ああ吾事休矣《わがこときゅうす》いくらしがみついても車は半輪転もしないああ吾事休矣としきりに感投詞を繰り返して暗に助勢を嘆願する、かくあらんとは兼て期したる監督官なれば、近く進んでさあ、僕がしっかり抑えているから乗りたまえ、おっとそう真ともに乗っては顛《ひっく》り返る、そら見たまえ、膝を打《うっ》たろう、今度はそーっと尻をかけて両手でここを握って、よしか、僕が前へ押し出すからその勢《いきおい》で調子に乗って馳《か》け出すんだよ、と怖《こわ》がる者を面白半分前へ突き出す、然るにすべてこれらの準備すべてこれらの労力が突き出される瞬間において砂地に横面を抛《ほう》りつけるための準備にしてかつ労力ならんとは実に神ならぬ身の誰か知るべき底《てい》の驚愕《きょうがく》である。
 ちらほら人が立ちどまって見る、にやにや笑って行くものがある、向うの樫《かし》の木の下に乳母《うば》さんが小供をつれてロハ台に腰をかけてさっきからしきりに感服して見ている、何を感服しているのか分らない、おおかた流汗淋漓《りゅうかんりんり》大童《おおわらわ》となって自転車と奮闘しつつある健気《けなげ》な様子に見とれているのだろう、天涯《てんがい》この好知己《こうちき》を得る以上は向脛《むこうずね》の二三カ所を擦《す》りむいたって惜しくはないという気になる、「もう一遍頼むよ、もっと強く押してくれたまえ、なにまた落ちる? 落ちたって僕の身体《からだ》だよ」と降参人たる資格を忘れてしきりに汗気※[#「(諂−言)+炎」、第3水準1−87−64]《かんきえん》を吹いている、すると出し抜に後ろから Sir ! と呼んだものがある、はてな滅多《めった》な異人に近づきはないはずだがとふり返ると、ちょっと人を狼狽《ろうばい》せしむるに足る的の大巡査がヌーッと立っている、こちらはこんな人に近づきではないが先方ではこのポット出のチンチクリンの田舎者《いなかもの》に近づかざるべからざる理由があってまさに近づいたものと見える、その理由に曰《いわ》くここは馬を乗る所で自転車に乗る所ではないから自転車を稽古《けいこ》するなら往来へ出てやらしゃい、オーライ謹んで命を領すと混淆式《こんこうしき》の答に博学の程度を見せてすぐさまこれを監督官に申出る、と監督官は降参人の今日の凹《ヘコ》み加減充分とや思いけん、もう帰ろうじゃないかと云う、すなわち乗れざる自転車と手を携えて帰る、どうでしたと婆さんの問に敗余の意気をもらすらく車|嘶《いなな》いて白日暮れ耳鳴って秋気|来《きた》るヘン
 忘月忘日 例の自転車を抱いて坂の上に控えたる余は徐《おもむ》ろに眼を放って遥《はる》かあなたの下を見廻す、監督官の相図を待って一気にこの坂を馳《か》け下りんとの野心あればなり、坂の長さ二丁余、傾斜の角度二十度ばかり、路幅十間を超《こ》えて人通多からず、左右はゆかしく住みなせる屋敷ばかりなり、東洋の名士が自転車から落る稽古《けいこ》をすると聞いて英政府が特に土木局に命じてこの道路を作らしめたかどうだかその辺はいまだに判然しないが、とにかく自転車用道路として申分のない場所である、余が監督官は巡査の小言に胆《きも》を冷したものか乃至《ないし》はまた余の車を前へ突き出す労力を省《はぶ》くためか、昨日から人と車を天然自然ところがすべく特にこの地を相し得て余を連れだしたのである、
 人の通らない馬車のかよわない時機を見計ったる監督官はさあ今だ早く乗りたまえという、ただしこの乗るという字に註釈が入る、この字は吾《われ》ら両人の間にはいまだ普通の意味に用られていない、わがいわゆる乗るは彼らのいわゆる乗るにあらざるなり、鞍《くら》に尻をおろさざるなり、ペダルに足をかけざるなり、ただ力学の原理に依頼して毫《ごう》も人工を弄《ろう》せざるの意なり、人をもよけず馬をも避けず水火をも辞せず驀地《ばくち》に前進するの義なり、去るほどにその格好《かっこう》たるやあたかも疝気持《せんきもち》が初出《でぞめ》に梯子乗《はしごのり》を演ずるがごとく、吾ながら乗るという字を濫用《らんよう》してはおらぬかと危ぶむくらいなものである、されども乗るはついに乗るなり、乗らざるにあらざるなり、ともかくも人間が自転車に附着している也、しかも一気呵成《いっきかせい》に附着しているなり、この意味において乗るべく命ぜられたる余は、疾風のごとくに坂の上から転がり出す、すると不思議やな左の方の屋敷の内から拍手して吾が自転行を壮にしたいたずらものがある、妙だなと思う間もなく車はすでに坂の中腹へかかる、今度は大変な物に出
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