くかな」と云い出した。
「権現様も名所の一つだから好いでしょう」
 二人はすぐ山を下りた。俥《くるま》にも乗らず、傘《かさ》も差さず、麦藁帽子《むぎわらぼうし》だけ被《かぶ》って暑い砂道を歩いた。こうして兄といっしょに昇降器へ乗ったり、権現へ行ったりするのが、その日は自分に取って、何だか不安に感ぜられた。平生でも兄と差向いになると多少|気不精《きぶっせい》には違なかったけれども、その日ほど落ちつかない事もまた珍らしかった。自分は兄から「おい二郎二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時からすでに変な心持がした。
 二人は額から油汗をじりじり湧《わ》かした。その上に自分は実際|昨夕《ゆうべ》食った鯛《たい》の焙烙蒸《ほうろくむし》に少しあてられていた。そこへだんだん高くなる太陽が容赦なく具合の悪い頭を照らしたので、自分は仕方なしに黙って歩いていた。兄も無言のまま体を運ばした。宿で借りた粗末な下駄《げた》がさくさく砂に喰い込む音が耳についた。
「二郎どうかしたか」
 兄の声は全く藪《やぶ》から棒が急に出たように自分を驚かした。
「少し心持が変です」
 二人はまた無言で歩き出した。
 ようやく権現の下へ来た時、細い急な石段を仰ぎ見た自分は、その高いのに辟易《へきえき》するだけで、容易に登る勇気は出し得なかった。兄はその下に並べてある藁草履《わらぞうり》を突掛けて十段ばかり一人で上《のぼ》って行ったが、後《あと》から続かない自分に気がついて、「おい来ないか」と嶮《けわ》しく呼んだ。自分も仕方なしに婆さんから草履を一足借りて、骨を折って石段を上り始めた。それでも中途ぐらいから一歩ごとに膝《ひざ》の上に両手を置いて、身体《からだ》の重みを託さなければならなかった。兄を下から見上げるとさも焦熱《じれ》ったそうに頂上の山門の角に立っていた。
「まるで酔っ払いのようじゃないか、段々を筋違《すじかい》に練って歩くざまは」
 自分は何と評されても構わない気で、早速帽子を地《じ》の上に投げると同時に、肌を抜いだ。扇を持たないので、手にした手帛《ハンケチ》でしきりに胸の辺りを払った。自分は後《うしろ》から「おい二郎」ときっと何か云われるだろうと思って、内心穏かでなかったせいか、汗に濡《ぬ》れた手帛をむやみに振り動かした。そうして「暑い暑い」と続けさまに云った。
 兄はやがて自分の傍《そば》へ来てそこにあった石に腰をおろした。その石の後は篠竹《しのだけ》が一面に生えて遥《はるか》の下まで石垣の縁《ふち》を隠すように茂っていた。その中から大きな椿《つばき》が所々に白茶けた幹を現すのがことに目立って見えた。
「なるほどここは静《しずか》だ。ここならゆっくり話ができそうだ」と兄は四方《あたり》を見廻した。

        十八

「二郎少し御前に話があるがね」と兄が云った。
「何です」
 兄はしばらく逡巡《しゅんじゅん》して口を開かなかった。自分はまたそれを聞くのが厭《いや》さに、催促もしなかった。
「ここは涼しいですね」と云った。
「ああ涼しい」と兄も答えた。
 実際そこは日影に遠いせいか涼しい風の通う高みであった。自分は三四分手帛を動かした後《のち》、急に肌を入れた。山門の裏には物寂《ものさ》びた小さい拝殿があった。よほど古い建物と見えて、軒に彫つけた獅子の頭などは絵の具が半分|剥《は》げかかっていた。
 自分は立って山門を潜《くぐ》って拝殿の方へ行った。
「兄さんこっちの方がまだ涼しい。こっちへいらっしゃい」
 兄は答えもしなかった。自分はそれを機《しお》に拝殿の前面を左右に逍遥《しょうよう》した。そうして暑い日を遮《さえぎ》る高い常磐木《ときわぎ》を見ていた。ところへ兄が不平な顔をして自分に近づいて来た。
「おい少し話しがあるんだと云ったじゃないか」
 自分は仕方なしに拝殿の段々に腰をかけた。兄も自分に並んで腰をかけた。
「何ですか」
「実は直《なお》の事だがね」と兄ははなはだ云い悪《にく》いところをやっと云い切ったという風に見えた。自分は「直」という言葉を聞くや否や冷《ひや》りとした。兄夫婦の間柄は母が自分に訴えた通り、自分にもたいていは呑《の》み込めていた。そうして母に約束したごとく、自分はいつか折を見て、嫂《あによめ》に腹の中をとっくり聴糺《ききただ》した上、こっちからその知識をもって、積極的に兄に向《むか》おうと思っていた。それを自分がやらないうちに、もし兄から先《せん》を越されでもすると困るので、自分はひそかにそこを心配していた。実を云うと、今朝《けさ》兄から「二郎、二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時、自分はあるいはこの問題が出るのではあるまいかと掛念《けねん》して自《おのず》と厭《いや》になったのである。
「嫂《ねえ》さんがどうかしたんですか」と自分はやむを得ず兄に聞き返した。
「直は御前に惚《ほ》れてるんじゃないか」
 兄の言葉は突然であった。かつ普通兄のもっている品格にあたいしなかった。
「どうして」
「どうしてと聞かれると困る。それから失礼だと怒られてはなお困る。何も文《ふみ》を拾ったとか、接吻《せっぷん》したところを見たとか云う実証から来た話ではないんだから。本当いうと表向《おもてむき》こんな愚劣な問を、いやしくも夫たるおれが、他人に向ってかけられた訳のものではない。ないが相手が御前だからおれもおれの体面を構わずに、聞き悪いところを我慢して聞くんだ。だから云ってくれ」
「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、ことに現在の嫂ですぜ」
 自分はこう答えた。そうしてこう答えるよりほかに何と云う言葉も出なかった。
「それは表面の形式から云えば誰もそう答えなければならない。御前も普通の人間だからそう答えるのが至当だろう。おれもその一言《いちごん》を聞けばただ恥じ入るよりほかに仕方がない。けれども二郎御前は幸いに正直な御父さんの遺伝を受けている。それに近頃の、何事も隠さないという主義を最高のものとして信じているから聞くのだ。形式上の答えはおれにも聞かない先から解っているが、ただ聞きたいのは、もっと奥の奥の底にある御前の感じだ。その本当のところをどうぞ聞かしてくれ」

        十九

「そんな腹の奥の奥底にある感じなんて僕に有るはずがないじゃありませんか」
 こう答えた時、自分は兄の顔を見ないで、山門の屋根を眺めていた。兄の言葉はしばらく自分の耳に聞こえなかった。するとそれが一種の癇高《かんだか》い、さも昂奮《こうふん》を抑《おさ》えたような調子になって響いて来た。
「おい二郎何だってそんな軽薄な挨拶《あいさつ》をする。おれと御前は兄弟じゃないか」
 自分は驚いて兄の顔を見た。兄の顔は常磐木《ときわぎ》の影で見るせいかやや蒼味《あおみ》を帯びていた。
「兄弟ですとも。僕はあなたの本当の弟《おとと》です。だから本当の事を御答えしたつもりです。今云ったのはけっして空々しい挨拶でも何でもありません。真底そうだからそういうのです」
 兄の神経の鋭敏なごとく自分は熱しやすい性急《せっかち》であった。平生の自分ならあるいはこんな返事は出なかったかも知れない。兄はその時簡単な一句を射た。
「きっと」
「ええきっと」
「だって御前の顔は赤いじゃないか」
 実際その時の自分の顔は赤かったかも知れない。兄の面色《めんしょく》の蒼《あお》いのに反して、自分は我知らず、両方の頬の熱《ほて》るのを強く感じた。その上自分は何と返事をして好いか分らなかった。
 すると兄は何と思ったかたちまち階段から腰を起した。そうして腕組をしながら、自分の席を取っている前を右左に歩き出した。自分は不安な眼をして、彼の姿を見守った。彼は始めから眼を地面の上に落していた。二三度自分の前を横切ったけれどもけっして一遍もその眼を上げて自分を見なかった。三度目に彼は突如として、自分の前に来て立ち留った。
「二郎」
「はい」
「おれは御前の兄だったね。誠に子供らしい事を云って済まなかった」
 兄の眼の中には涙がいっぱい溜《たま》っていた。
「なぜです」
「おれはこれでも御前より学問も余計したつもりだ。見識も普通の人間より持っているとばかり今日《こんにち》まで考えていた。ところがあんな子供らしい事をつい口にしてしまった。まことに面目《めんぼく》ない。どうぞ兄を軽蔑《けいべつ》してくれるな」
「なぜです」
 自分は簡単なこの問を再び繰返した。
「なぜですとそう真面目《まじめ》に聞いてくれるな。ああおれは馬鹿だ」
 兄はこう云って手を出した。自分はすぐその手を握った。兄の手は冷たかった。自分の手も冷たかった。
「ただ御前の顔が少しばかり赤くなったからと云って、御前の言葉を疑ぐるなんて、まことに御前の人格に対して済まない事だ。どうぞ堪忍《かんにん》してくれ」
 自分は兄の気質が女に似て陰晴常なき天候のごとく変るのをよく承知していた。しかし一《ひ》と見識《けんしき》ある彼の特長として、自分にはそれが天真爛漫《てんしんらんまん》の子供らしく見えたり、または玉のように玲瓏《れいろう》な詩人らしく見えたりした。自分は彼を尊敬しつつも、どこか馬鹿にしやすいところのある男のように考えない訳に行かなかった。自分は彼の手を握ったまま「兄さん、今日は頭がどうかしているんですよ。そんな下らない事はもうこれぎりにしてそろそろ帰ろうじゃありませんか」と云った。

        二十

 兄は突然自分の手を放した。けれどもけっしてそこを動こうとしなかった。元の通り立ったまま何も云わずに自分を見下した。
「御前|他《ひと》の心が解るかい」と突然聞いた。
 今度は自分の方が何も云わずに兄を見上げなければならなかった。
「僕の心が兄さんには分らないんですか」とやや間を置いて云った。自分の答には兄の言葉より一種の根強さが籠《こも》っていた。
「御前の心はおれによく解っている」と兄はすぐ答えた。
「じゃそれで好いじゃありませんか」と自分は云った。
「いや御前の心じゃない。女の心の事を云ってるんだ」
 兄の言語のうち、後《あと》一句には火の付いたような鋭さがあった。その鋭さが自分の耳に一種異様の響を伝えた。
「女の心だって男の心だって」と云いかけた自分を彼は急に遮《さえぎ》った。
「御前は幸福な男だ。おそらくそんな事をまだ研究する必要が出て来なかったんだろう」
「そりゃ兄さんのような学者じゃないから……」
「馬鹿云え」と兄は叱りつけるように叫んだ。
「書物の研究とか心理学の説明とか、そんな廻り遠い研究を指すのじゃない。現在自分の眼前にいて、最も親しかるべきはずの人、その人の心を研究しなければ、いても立ってもいられないというような必要に出逢《であ》った事があるかと聞いてるんだ」
 最も親しかるべきはずの人と云った兄の意味は自分にすぐ解った。
「兄さんはあんまり考え過ぎるんじゃありませんか、学問をした結果。もう少し馬鹿になったら好いでしょう」
「向うでわざと考えさせるように仕向けて来るんだ。おれの考え慣れた頭を逆に利用して。どうしても馬鹿にさせてくれないんだ」
 自分はここにいたって、ほとんど慰藉《いしゃ》の辞《じ》に窮した。自分より幾倍立派な頭をもっているか分らない兄が、こんな妙な問題に対して自分より幾倍頭を悩めているかを考えると、はなはだ気の毒でならなかった。兄が自分より神経質な事は、兄も自分もよく承知していた。けれども今まで兄からこう歇私的里的《ヒステリてき》に出られた事がないので、自分も実は途方に暮れてしまった。
「御前メレジスという人を知ってるか」と兄が聞いた。
「名前だけは聞いています」
「あの人の書翰集《しょかんしゅう》を読んだ事があるか」
「読むどころか表紙を見た事もありません」
「そうか」
 彼はこう云って再び自分の傍《そば》へ腰をかけた。自分はこの時始めて懐中に敷島《しきしま》の袋と燐寸《マッチ》のある事に気がついた。それを取り出して、自分からまず火を点《つ》けて兄に渡した。兄は器械的にそれを吸った。
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