懐《なつ》かしい記憶を喚起《よびおこ》した。

        三

 お兼《かね》さんの態度は明瞭《めいりょう》で落ちついて、どこにも下卑《げび》た家庭に育ったという面影《おもかげ》は見えなかった。「二三日前《にさんちまえ》からもうおいでだろうと思って、心待《こころまち》に御待申しておりました」などと云って、眼の縁《ふち》に愛嬌《あいきょう》を漂《ただ》よわせるところなどは、自分の妹よりも品《ひん》の良《い》いばかりでなく、様子も幾分か立優《たちまさ》って見えた。自分はしばらくお兼さんと話しているうちに、これなら岡田がわざわざ東京まで出て来て連れて行ってもしかるべきだという気になった。
 この若い細君がまだ娘盛《むすめざかり》の五六年|前《ぜん》に、自分はすでにその声も眼鼻立《めはなだち》も知っていたのではあるが、それほど親しく言葉を換《か》わす機会もなかったので、こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴々《なれなれ》しい応対もできなかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対するごとく、畏《かしこ》まった言語をぽつぽつ使った。岡田はそれがおかしいのか、または嬉《う
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