得なかった。けれどもこう真面目《まじめ》に出られて見ると、もう交《ま》ぜ返《かえ》す勇気もなかった。その上彼のいわゆる潰瘍とはどんなものか全く知らなかった。
 自分は起《た》って窓側《まどぎわ》へ行った。そうして強い光に反射して、乾いた土の色を見せている暗《くら》がり峠《とうげ》を望んだ。ふと奈良へでも遊びに行って来《き》ようかという気になった。
「君その様子じゃ当分約束を履行《りこう》する訳にも行かないだろう」
「履行しようと思って、これほどの養生をしているのさ」
 三沢はなかなか強情の男であった。彼の強情につき合えば、彼の健康が旅行に堪《た》え得るまで自分はこの暑い都の中で蒸《む》されていなければならなかった。
「だって君の氷嚢はなかなか取れそうにないじゃないか」
「だから早く癒《なお》るさ」
 自分は彼とこういう談話を取り換《か》わせているうちに、彼の強情のみならず、彼のわがままな点をよく見て取った。同時に一日も早く病人を見捨てて行こうとする自分のわがままもまたよく自分の眼に映った。
「君大阪へ着いたときはたくさん伴侶《つれ》があったそうじゃないか」
「うん、あの連中と飲んだのが
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