ならない吾《わ》が妻じゃありませんか。兄さんに云わしたらまた学者相応の意見もありましょうけれども学者以下の我々にはとてもあんな真似はできませんからね」
自分がこんな下らない理窟《りくつ》を云い募《つの》っているうちに、母の眼にはいつの間にか涙らしい光の影が、だんだん溜《たま》って来たので、自分は驚いてやめてしまった。
自分は面《つら》の皮が厚いというのか、遠慮がなさ過ぎると云うのか、それほど宅《うち》のものが気兼《きがね》をして、云わば敬して遠ざけているような兄の書斎の扉《ドア》を他《ひと》よりもしばしば叩《たた》いて話をした。中へ這入《はい》った当分の感じは、さすがの自分にも少し応《こた》えた。けれども十分ぐらい経《た》つと彼はまるで別人のように快活になった。自分は苦《にが》い兄の心機をこう一転させる自分の手際《てぎわ》に重きをおいて、あたかも己《おの》れの虚栄心を満足させるための手段らしい態度をもって、わざわざ彼の書斎へ出入《でいり》した事さえあった。自白すると、突然兄から捕《つら》まって危く死地に陥《おとしい》れられそうになったのも、実はこういう得意の瞬間であった。
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