「あれ、まだ有るでしょう綺麗《きれい》ね」と彼女が云った。
「ええ。大事にして持っています」と自分は答えた。自分は事実だからこう答えざるを得なかった。こう答える以上、彼女が自分に親切であったという事実を裏から認識しない訳に行かなかった。
ふと耳を欹《そばだ》てると向うの二階で弾《ひ》いていた三味線はいつの間にかやんでいた。残り客らしい人の酔った声が時々風を横切って聞こえた。もうそれほど遅くなったのかと思って、時計を捜《さが》し出しにかかったところへ女中が飛石伝《とびいしづたい》に縁側《えんがわ》から首を出した。
自分らはこの女中を通じて、和歌の浦が今暴風雨に包まれているという事を知った。電話が切れて話が通じないという事を知った。往来の松が倒れて電車が通じないという事も知った。
三十三
自分はその時急に母や兄の事を思い出した。眉《まゆ》を焦《こが》す火のごとく思い出した。狂《くる》う風と渦巻《うずま》く浪《なみ》に弄《もてあそ》ばれつつある彼らの宿が想像の眼にありありと浮んだ。
「姉さん大変な事になりましたね」と自分は嫂を顧みた。嫂はそれほど驚いた様子もなかっ
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