るという患者の承諾をもたらした。三沢は黙って立ち上った。
彼は自分の顔も見ず、また看護婦の顔も見ず、黙って立ったなり、すっと「あの女」の室の中へ姿を隠した。自分は元の座に坐《すわ》って、ぼんやりその後影《うしろかげ》を見送った。彼の姿が見えなくなってもやはり空《くう》に同じ所を見つめていた。冷淡なのは看護婦であった。ちょっと侮蔑《あなどり》の微笑《びしょう》を唇《くちびる》の上に漂《ただよ》わせて自分を見たが、それなり元の通り柱に背を倚《よ》せて、黙って読みかけた書物をまた膝《ひざ》の上にひろげ始めた。
室の中は三沢の入った後も彼の入らない前も同じように静《しずか》であった。話し声などは無論聞こえなかった。看護婦は時々不意に眼を上げて室の奥の方を見た。けれども自分には何の相図《あいず》もせずに、すぐその眼を頁《ページ》の上に落した。
自分はこの三階の宵《よい》の間《ま》に虫の音らしい涼しさを聴《き》いた例《ためし》はあるが、昼のうちにやかましい蝉《せみ》の声はついぞ自分の耳に届いた事がない。自分のたった一人で坐っている病室はその時明かな太陽の光を受けながら、真夜中よりもなお静かであった。自分はこの死んだような静かさのために、かえって神経を焦《い》らつかせて、「あの女」の室から三沢の出るのを待ちかねた。
やがて三沢はのっそりと出て来た。室の敷居を跨《また》ぐ時、微笑しながら「御邪魔さま。大勉強だね」と看護婦に挨拶《あいさつ》する言葉だけが自分の耳に入った。
彼は上草履《うわぞうり》の音をわざとらしく高く鳴らして、自分の室に入るや否や、「やっと済んだ」と云った。自分は「どうだった」と聞いた。
「やっと済んだ。これでもう出ても好い」
三沢は同じ言葉を繰返すだけで、その他には何にも云わなかった。自分もそれ以上は聞き得なかった。ともかくも退院の手続を早くする方が便利だと思って、そこらに散らばっているものを片づけ始めた。三沢も固《もと》よりじっとしてはいなかった。
三十一
二人は俥《くるま》を雇《やと》って病院を出た。先へ梶棒《かじぼう》を上げた三沢の車夫が余り威勢よく馳《か》けるので、自分は大きな声でそれを留めようとした。三沢は後《うしろ》を振り向いて、手を振った。「大丈夫、大丈夫」と云うらしく聞こえたから、自分もそれなりにして注意はしなかった。宿へ着いたとき、彼は川縁《かわべり》の欄干《らんかん》に両手を置いて、眼の下の広い流をじっと眺《なが》めていた。
「どうした。心持でも悪いか」と自分は後から聞いた。彼は後を向かなかった。けれども「いいや」と答えた。「ここへ来てこの河を見るまでこの室《へや》の事をまるで忘れていた」
そういって、彼は依然として流れに向っていた。自分は彼をそのままにして、麻の座蒲団《ざぶとん》の上に胡坐《あぐら》をかいた。それでも待遠しいので、やがて袂《たもと》から敷島《しきしま》の袋を出して、煙草を吸い始めた。その煙草が三分の一|煙《けむ》になった頃、三沢はようやく手摺《てすり》を離れて自分の前へ来て坐《すわ》った。
「病院で暮らしたのも、つい昨日今日のようだが、考えて見ると、もうだいぶんになるんだね」と云って指を折りながら、日数《ひかず》を勘定《かんじょう》し出した。
「三階の光景が当分眼を離れないだろう」と自分は彼の顔を見た。
「思いも寄らない経験をした。これも何かの因縁《いんねん》だろう」と三沢も自分の顔を見た。
彼は手を叩《たた》いて、下女を呼んで今夜の急行列車の寝台《しんだい》を注文した。それから時計を出して、食事を済ました後《あと》、時間にどのくらい余裕があるかを見た。窮屈に馴《な》れない二人はやがて転《ごろ》りと横になった。
「あの女は癒《なお》りそうなのか」
「そうさな。事によると癒るかも知れないが……」
下女が誂《あつら》えた水菓子を鉢《はち》に盛って、梯子段《はしごだん》を上って来たので、「あの女」の話はこれで切れてしまった。自分は寝転《ねころ》んだまま、水菓子を食った。その間彼はただ自分の口の辺《あたり》を見るばかりで、何事も云わなかった。しまいにさも病人らしい調子で、「おれも食いたいな」と一言《ひとこと》云った。先刻《さっき》から浮かない様子を見ていた自分は、「構うものか、食うが好い。食え食え」と勧めた。三沢は幸いにして自分が氷菓子《アイスクリーム》を食わせまいとしたあの日の出来事を忘れていた。彼はただ苦笑いをして横を向いた。
「いくら好《すき》だって、悪いと知りながら、無理に食わせられて、あの女のようになっちゃ大変だからな」
彼は先刻から「あの女」の事を考えているらしかった。彼は今でも「あの女」の事を考えているとしか思われなかった。
「あの女は君を
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