うと、毎日子供を負ぶって、廊下だの物見台だの他人《ひと》の室《へや》だのを、ぶらぶら廻って歩く呑気《のんき》な男もあった。
「まるで病院を娯楽場のように思ってるんだね」
「第一《だいち》どっちが病人なんだろう」
 自分達はおかしくもありまた不思議でもあった。看護婦に聞くと、負ぶっているのは叔父で、負ぶさっているのは甥《おい》であった。この甥が入院当時骨と皮ばかりに瘠《や》せていたのを叔父の丹精《たんせい》一つでこのくらい肥《ふと》ったのだそうである。叔父の商売はめりやす屋だとか云った。いずれにしても金に困らない人なのだろう。
 三沢の一軒おいて隣にはまた変な患者がいた。手提鞄《てさげかばん》などを提《さ》げて、普通の人間の如く平気で出歩いた。時には病院を空《あ》ける事さえあった。帰って来ると素《す》っ裸体《ぱだか》になって、病院の飯を旨《うま》そうに食った。そうして昨日《きのう》はちょっと神戸まで行って来ましたなどと澄ましていた。
 岐阜からわざわざ本願寺参りに京都まで出て来たついでに、夫婦共この病院に這入《はい》ったなり動かないのもいた。その夫婦ものの室の床《とこ》には後光《ごこう》の射した阿弥陀様《あみださま》の軸がかけてあった。二人差向いで気楽そうに碁《ご》を打っている事もあった。それでも細君に聞くと、この春|餅《もち》を食った時、血を猪口《ちょく》に一杯半ほど吐いたから伴《つ》れて来たのだともったいらしく云って聞かせた。
「あの女」の看護婦は依然として入口の柱に靠《もた》れて、わが膝《ひざ》を両手で抱いている事が多かった。こっちの看護婦はそれをまた器量を鼻へかけて、わざわざあんな人の眼に着く所へ出るのだと評していた。自分は「まさか」と云って弁護する事もあった。けれども「あの女」とその美しい看護婦との関係は、冷淡さ加減の程度において、当初もその時もあまり変りがないように見えた。自分は器量好しが二人寄って、我知らず互に嫉《にく》み合うのだろうと説明した。三沢は、そうじゃない、大阪の看護婦は気位が高いから、芸者などを眼下《がんか》に見て、始めから相手にならないんだ、それが冷淡の原因に違ないと主張した。こう主張しながらも彼は別にこの看護婦を悪《にく》む様子はなかった。自分もこの女に対してさほど厭な感じはもっていなかった。醜い三沢の付添いは「本間《ほんま》に器量の好《え》いものは徳やな」と云った風の、自分達には変に響く言葉を使って、二人を笑わせた。
 こんな周囲に取り囲まれた三沢は、身体の回復するに従って、「あの女」に対する興味を日に増し加えて行くように見えた。自分がやむをえず興味という妙な熟字をここに用いるのは、彼の態度が恋愛でもなければ、また全くの親切でもなく、興味の二字で現すよりほかに、適切な文字がちょっと見当らないからである。
 始めて「あの女」を控室で見たときは、自分の興味も三沢に譲らないくらい鋭かった。けれども彼から「あの女」の話を聞かされるや否や、主客《しゅかく》の別はすでについてしまった。それからと云うもの、「あの女」の噂《うわさ》が出るたびに、彼はいつでも先輩の態度を取って自分に向った。自分も一時は彼に釣り込まれて、当初の興味がだんだん研《と》ぎ澄《す》まされて行くような気分になった。けれども客の位置に据《す》えられた自分はそれほど長く興味の高潮《こうちょう》を保ち得なかった。

        二十六

 自分の興味が強くなった頃、彼の興味は自分より一層強くなった。自分の興味がやや衰えかけると、彼の興味はますます強くなって来た。彼は元来がぶっきらぼうの男だけれども、胸の奥には人一倍|優《やさ》しい感情をもっていた。そうして何か事があると急に熱する癖があった。
 自分はすでに院内をぶらぶらするほどに回復した彼が、なぜ「あの女」の室《へや》へ入り込まないかを不審に思った。彼はけっして自分のような羞恥家《はにかみや》ではなかった。同情の言葉をかけに、一遍会った「あの女」の病室へ見舞に行くぐらいの事は、彼の性質から見て何でもなかった。自分は「そんなにあの女が気になるなら、直《じか》に行って、会って慰めてやれば好いじゃないか」とまで云った。彼は「うん、実は行きたいのだが……」と渋《しぶ》っていた。実際これは彼の平生にも似合わない挨拶《あいさつ》であった。そうしてその意味は解らなかった。解らなかったけれども、本当は彼の行かない方が、自分の希望であった。
 ある時自分は「あの女」の看護婦から――自分とこの美しい看護婦とはいつの間にか口を利《き》くようになっていた。もっともそれは彼女が例の柱に倚《よ》りかかって、その前を通る自分の顔を見上げるときに、時候の挨拶を取換《とりか》わすぐらいな程度に過ぎなかったけれども、――とにか
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