人があり得るものかとわざと驚いたような顔をして、彼らの様子を一順《いちじゅん》見渡してから、梯子段《はしごだん》に足をかけた。自分が偶然あの女を見出だしたのは全くこの一瞬間にあった。あの女というのは三沢があの女あの女と呼ぶから自分もそう呼ぶのである。
あの女はその時廊下の薄暗い腰掛の隅《すみ》に丸くなって横顔だけを見せていた。その傍《そば》には洗髪《あらいがみ》を櫛巻《くしまき》にした背の高い中年の女が立っていた。自分の一瞥《いちべつ》はまずその女の後姿《うしろすがた》の上に落ちた。そうして何だかそこにぐずぐずしていた。するとその年増《としま》が向うへ動き出した。あの女はその年増の影から現われたのである。その時あの女は忍耐の像のように丸くなってじっとしていた。けれども血色にも表情にも苦悶《くもん》の迹《あと》はほとんど見えなかった。自分は最初その横顔を見た時、これが病人の顔だろうかと疑った。ただ胸が腹に着くほど背中を曲げているところに、恐ろしい何物かが潜《ひそ》んでいるように思われて、それがはなはだ不快であった。自分は階段を上《のぼ》りつつ、「あの女」の忍耐と、美しい容貌《ようぼう》の下に包んでいる病苦とを想像した。
三沢は看護婦から病院のAという助手の話を聞かされていた。このAさんは夜になって閑《ひま》になると、好く尺八《しゃくはち》を吹く若い男であった。独身《ひとり》もので病院に寝泊りをして、室《へや》は三沢と同じ三階の折れ曲った隅にあった。この間まで始終《しじゅう》上履《スリッパー》の音をぴしゃぴしゃ云わして歩いていたが、この二三日まるで顔を見せないので、三沢も自分も、どうかしたのかねぐらいは噂《うわさ》し合っていたのである。
看護婦はAさんが時々|跛《びっこ》を引いて便所へ行く様子がおかしいと云って笑った。それから病院の看護婦が時々ガーゼと金盥《かなだらい》を持ってAさんの部屋へ入って行くところを見たとも云った。三沢はそういう話に興味があるでもなく、また無いでもないような無愛嬌《ぶあいきょう》な顔をして、ただ「ふん」とか「うん」とか答えていた。
彼はまた自分にいつまで大阪にいるつもりかと聞いた。彼は旅行を断念してから、自分の顔を見るとよくこう云った。それが自分には遠慮がましくかつ催促がましく聞こえてかえって厭《いや》であった。
「僕の都合で帰ろうと思えばいつでも帰るさ」
「どうかそうしてくれ」
自分は立って窓から真下を見下した。「あの女」はいくら見ていても門の外へ出て来なかった。
「日の当る所へわざわざ出て何をしているんだ」と三沢が聞いた。
「見ているんだ」と自分は答えた。
「何を見ているんだ」と三沢が聞き返した。
十九
自分はそれでも我慢して容易に窓側《まどぎわ》を離れなかった。つい向うに見える物干に、松だの石榴《ざくろ》だのの盆栽が五六|鉢《はち》並んでいる傍《そば》で、島田に結《い》った若い女が、しきりに洗濯ものを竿《さお》の先に通していた。自分はちょっとその方を見てはまた下を向いた。けれども待ち設けている当人はいつまで経《た》っても出て来る気色《けしき》はなかった。自分はとうとう暑さに堪《た》え切れないでまた三沢の寝床の傍へ来て坐《すわ》った。彼は自分の顔を見て、「どうも強情な男だな、他《ひと》が親切に云ってやればやるほど、わざわざ日の当る所に顔を曝《さら》しているんだから。君の顔は真赤《まっか》だよ」と注意した。自分は平生から三沢こそ強情な男だと思っていた。それで「僕の窓から首を出していたのは、君のような無意味な強情とは違う。ちゃんと目的があってわざと首を出したんだ」と少しもったいをつけて説明した。その代り肝心《かんじん》の「あの女」の事をかえって云い悪《にく》くしてしまった。
ほど経《へ》て三沢はまた「先刻《さっき》は本当に何か見ていたのか」と笑いながら聞いた。自分はこの時もう気が変っていた。「あの女」を口にするのが愉快だった。どうせ強情な三沢の事だから、聞けばきっと馬鹿だとか下らないとか云って自分を冷罵するに違ないとは思ったが、それも気にはならなかった。そうしたら実は「あの女」について自分はある原因から特別の興味をもつようになったのだぐらい答えて、三沢を少し焦《じ》らしてやろうという下心さえ手伝った。
ところが三沢は自分の予期とはまるで反対の態度で、自分のいう一句一句をさも感心したらしく聞いていた。自分も乗気になって一二分で済むところを三倍ほどに語り続けた。一番しまいに自分の言葉が途切れた時、三沢は「それは無論|素人《しろうと》なんじゃなかろうな」と聞いた。自分は「あの女」を詳《くわ》しく説明したけれども、つい芸者という言葉を使わなかったのである。
「芸者ならことによる
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