ゅう》兄さんのお給仕をしたものだそうですね。昨夜《ゆうべ》は性格の点からお貞さんに比較され、今朝はまたお給仕の具合で同じお貞さんにたとえられた私は、つい兄さんに向って質問を掛けて見る気になりました。
「君はそのお貞さんとかいう人と、こうしていっしょに住んでいたら幸福になれると思うのか」
兄さんは黙って箸《はし》を口へ持って行きました。私は兄さんの態度から推《お》して、おおかた返事をするのが厭《いや》なんだろうと考えたので、それぎり後《あと》を推《お》しませんでした。すると兄さんの答が、御飯を二口三口|嚥《の》み下《くだ》したあとで、不意に出て来ました。
「僕はお貞さんが幸福に生れた人だと云った。けれども僕がお貞さんのために幸福になれるとは云やしない」
兄さんの言葉はいかにも論理的に終始を貫いて真直《まっすぐ》に見えます。けれども暗い奥には矛盾がすでに漂《ただ》よっています。兄さんは何にも拘泥《こうでい》していない自然の顔をみると感謝したくなるほど嬉《うれ》しいと私に明言した事があるのです。それは自分が幸福に生れた以上、他《ひと》を幸福にする事もできると云うのと同じ意味ではありませんか。私は兄さんの顔を見てにやにやと笑いました。兄さんはそうなるとただではすまされない男です。すぐ食いついて来ます。
「いや本当にそうなのだ。疑ぐられては困る。実際僕の云った事は云った事で、云わない事は云わない事なんだから」
私は兄さんに逆《さか》らいたくはありませんでした。けれどもこれほど頭の明かな兄さんが、自分の平生から軽蔑《けいべつ》している言葉の上の論理を弄《もてあそ》んで、平気でいるのは少しおかしいと思いました。それで私の腹にあった兄さんの矛盾を遠慮なく話して聞かせました。
兄さんはまた無言で飯を二口ほど頬張《ほおば》りました。兄さんの茶碗はその時|空《から》になりましたが、飯櫃《めしびつ》は依然として兄さんの手の届かない私の傍《そば》にありました。私はもう一遍給仕をする考えで、兄さんの鼻の先へ手を出したのです。ところが今度は兄さんが応じません。こっちへ寄こしてくれと云います。
私は飯櫃を向うへ押してやりました。兄さんは自分でしゃもじを取って、飯をてこ盛《もり》にもり上げました。それからその茶碗を膳《ぜん》の上に置いたまま、箸《はし》も執《と》らずに私に問いかけるのです。
「君は結婚前の女と、結婚後の女と同じ女だと思っているのか」
こうなると私にはおいそれと返事ができなくなります。平生そんな事を考えて見ないからでもありましょうが。今度は私の方が飯を二口三口立て続けに頬張って、兄さんの説明を待ちました。
「嫁に行く前のお貞さんと、嫁に行ったあとのお貞さんとはまるで違っている。今のお貞さんはもう夫のためにスポイルされてしまっている」
「いったいどんな人のところへ嫁に行ったのかね」と私が途中で聞きました。
「どんな人のところへ行こうと、嫁に行けば、女は夫のために邪《よこしま》になるのだ。そういう僕がすでに僕の妻《さい》をどのくらい悪くしたか分らない。自分が悪くした妻から、幸福を求めるのは押《おし》が強過ぎるじゃないか。幸福は嫁に行って天真《てんしん》を損《そこな》われた女からは要求できるものじゃないよ」
兄さんはそういうや否や、茶碗を取り上げて、むしゃむしゃてこ盛の飯を平《たい》らげました。
五十二
私は旅行に出てから今日《こんにち》に至るまでの兄さんを、これでできるだけ委《くわ》しく書いたつもりです。東京を立ったのはつい昨日《きのう》のようですが、指を折るともう十日あまりになります。私の音信《たより》をあてにして待っておられるあなたや御年寄には、この十日が少し長過ぎたかも知れません。私もそれは察しています。しかしこの手紙の冒頭に御断りしたような事情のために、ここへ来て落ちつくまでは、ほとんど筆を執《と》る余裕がなかったので、やむをえず遅れました。その代り過去十日間のうち、この手紙に洩《も》れた兄さんは一日もありません。私は念を入れてその日その日の兄さんをことごとくこの一封のうちに書き込めました。それが私の申訳です。同時に私の誇りです。私は当初の予期以上に、私の義務を果し得たという自信のもとに、この手紙を書き終るのですから。
私の費やした時間は、時計の針で仕事の分量を計算して見ない努力だから、数字としては申し上げられませんが、ずいぶんの骨折には違ありませんでした。私は生れて始めてこんな長い手紙を書きました。無論一気には書けません、一日にも書けません。ひまの見つかり次第机に向って書きかけたあとを書き続けて行ったのです。しかしそれは何でもありません。もし私の見た兄さんと、私の理解した兄さんがこの一封のうちに動いてい
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