思議なくらいです。兄さんを上《かみ》に述べたように頭の中へ畳み込んだが最後、いかに遅鈍《ちどん》な私だって、御相手はでき悪《にく》い訳です。しかし事実私は今兄さんとこうして差向いで暮していながら、さほどに苦痛を感じてはいないのです。少くとも傍《はた》で想像するよりはよほど楽なのだろうと考えています。そうしてそれをなぜだと聞かれたら、ちょっと返答に差支《さしつか》えるのです。あなたも同じ兄さんについて同じ経験をなさりはしませんか。もし同じ経験をなさらないならば、骨肉を分けたあなたよりも、他人の私の方が、兄さんに親しい性質をもって生れて来たのでしょう。親しいというのは、ただ仲が好いと云う意味ではありません。和《わ》して納《おさ》まるべき特性をどこか相互に分担《ぶんたん》して前へ進めるというつもりなのです。
私は旅へ出てから絶えず兄さんの気に障《さわ》るような事を云ったりしたりしました。ある時は頭さえ打《ぶ》たれました。それでも私はあなたの家庭のすべての人の前に立って、私はまだ兄さんから愛想を尽かされていないという事を明言できると思います。同時に、一種の弱点を持ったこの兄さんを、私は今でも衷心《ちゅうしん》から敬愛していると固く信じて疑わないのであります。
兄さんは私のような凡庸《ぼんよう》な者の前に、頭を下げて涙を流すほどの正しい人です。それをあえてするほどの勇気をもった人です。それをあえてするのが当然だと判断するだけの識見を具《そな》えた人です。兄さんの頭は明か過ぎて、ややともすると自分を置き去りにして先へ行きたがります。心の他《ほか》の道具が彼の理智と歩調を一つにして前へ進めないところに、兄さんの苦痛があるのです。人格から云えばそこに隙間《すきま》があるのです。成功から云えばそこに破滅が潜《ひそ》んでいるのです。この不調和を兄さんのために悲しみつつある私は、すべての原因をあまりに働き過ぎる彼の理智の罪に帰《き》しながら、やっぱり、その理智に対する敬意を失う事ができないのです。兄さんをただの気むずかしい人、ただのわがままな人とばかり解釈していては、いつまで経《た》っても兄さんに近寄る機会は来ないかも知れません。したがって少しでも兄さんの苦痛を柔《やわら》げる縁は、永劫《えいごう》に去ったものと見なければなりますまい。
我々は前《ぜん》申した通り箱根を立ちました。そうして直《すぐ》にこの紅《べに》が谷《やつ》の小別荘に入りました。私はその前ちょっと国府津《こうづ》に泊って見るつもりで、暗《あん》に一人《ひとり》ぎめのプログラムを立てていたのですが、とうとう兄さんにはそれを云い出さずにしまったのです。国府津でもまた「二度とこんな所は御免《ごめん》だ」と怒られそうでしたから。その上兄さんは私からこの別荘の話を聞いて、しきりにそこへ落ちつきたがっていたのです。
四十七
何にでも刺戟《しげき》されやすい癖に、どんな刺戟にも堪《た》え切れないと云った風の、今の兄さんには、草庵《そうあん》めいたこの別荘が最も適していたのかも知れません。兄さんは物静かな座敷から、谷一つ隔てて向うの崖《がけ》の高い松を見上げた時、「好いな」と云ってそこへ腰をおろしました。
「あの松も君の所有だ」
私は慰めるような句調で、わざと兄さんの口吻《こうふん》を真似て見せました。修善寺ではとんと解らなかった「あの百合《ゆり》は僕の所有だ」とか、「あの山も谷も僕の所有だ」とか云った兄さんの言葉を想《おも》い出したからです。
別荘には留守番《るすばん》の爺《じい》さんが一人いましたが、これは我々と出違《でちがい》に自分の宅《うち》へ帰りました。それでも拭掃除《ふきそうじ》のためや水を汲むために朝夕《あさゆう》一度ぐらいずつは必ず来てくれます。男二人の事ですから、煮炊《にたき》は無論できません。我々は爺さんに頼んで近所の宿屋から三度三度食事を運んで貰う事にしました。夜は電灯の設備がありますから、洋灯《ランプ》を点《とも》す手数《てかず》は要《い》らないのです。こういう訳で、朝起きてから夜寝るまでに、我々の是非やらなければならない事は、まあ床を延べて蚊帳《かや》を釣るくらいなものです。
「自炊よりも気楽で閑静だね」と兄さんが云います。実際今まで通って来た山や海のうちで、ここが一番|静《しずか》に違ないのです。兄さんと差向いで黙っていると、風の音さえ聞こえない事があります。多少やかましいと思うのは珊瑚樹《さんごじゅ》の葉隠れにぎいぎい軋《きし》る隣の車井戸《くるまいど》の響ですが、兄さんは案外それには無頓着《むとんじゃく》です。兄さんはだんだん落ちついて来るようです。私はもっと早く兄さんをここへ連れて来れば好かったと思いました。
庭先に少しばかりの
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