った稲の穂が膏雨《こうう》を得たように蘇《よみが》える。同時にその顔――何も考えていない、全く落ちつき払ったその顔が、大変気高く見える。眼が下っていても、鼻が低くっても、雑作《ぞうさく》はどうあろうとも、非常に気高く見える。僕はほとんど宗教心に近い敬虔《けいけん》の念をもって、その顔の前に跪《ひざま》ずいて感謝の意を表したくなる。自然に対する僕の態度も全く同じ事だ。昔のようにただうつくしいから玩《もてあそ》ぶという心持は、今の僕には起る余裕がない」
 兄さんはその時電車のなかで偶然見当る尊《たっと》い顔の部類の中《うち》へ、私を加えました。私は思いも寄らん事だと云って辞退しました。すると兄さんは真面目《まじめ》な態度でこう云いました。
「君でも一日のうちに、損も得も要《い》らない、善も悪も考えない、ただ天然のままの心を天然のまま顔に出している事が、一度や二度はあるだろう。僕の尊いというのは、その時の君の事を云うんだ。その時に限るのだ」
 兄さんはこう云われても覚束《おぼつか》なく見える私のために、具体的な証拠を示してやるというつもりか、昨夜《ゆうべ》二人が床に入る前の私を取って来てその例に引きました。兄さんはあの折談話の機《はずみ》でつい興奮し過ぎたと自白しました。しかし私の顔を見たときに、その激した心の調子がしだいに収まったと云うのです。私が肯《うけが》おうと肯うまいと、それには頓着《とんじゃく》する必要がない、ただその時の私から好い影響を受けて、一時的にせよ苦しい不安を免《まぬ》かれたのだと、兄さんは断言するのです。
 その時の私は前《ぜん》云った通りです。ただ煙草《たばこ》を吹かして黙っていただけです。私はその時すべての事を忘れました。独《ひと》り兄さんをどうにかしてこの不安の裡《うち》から救って上げたいと念じました。けれども私の心が兄さんに通じようとは思いませんでした。また通じさせようという気は無論ありませんでした。だから何にも云わずに黙って煙草を吹かしていたのです。しかしそこに純粋な誠があったのかも知れません。兄さんはその誠を私の顔に読んだのでしょうか。
 私は兄さんと砂浜の上をのそりのそりと歩きました。歩きながら考えました。兄さんは早晩宗教の門を潜《くぐ》って始めて落ちつける人間ではなかろうか。もっと強い言葉で同じ意味を繰り返すと、兄さんは宗教家になるために、今は苦痛を受けつつあるのではなかろうか。

        三十四

「君近頃神というものについて考えた事はないか」
 私はしまいにこういう質問を兄さんにかけました。私がここでとくに「近頃」と断ったのは、書生時代の古い回想から来たものであります。その時分は二人共まだ考えの纏《まと》まらない青二才でしたが、それでも私は思索に耽《ふけ》り勝《がち》な兄さんと、よく神の存在について云々したものであります。ついでだから申しますが、兄さんの頭はその時分から少しほかの人とは変っていました。兄さんは浮々《うかうか》と散歩をしていて、ふと自分が今歩いていたなという事実に気がつくと、さあそれが解すべからざる問題になって、考えずにはいられなくなるのでした。歩こうと思えば歩くのが自分に違《ちがい》ないが、その歩こうと思う心と、歩く力とは、はたしてどこから不意に湧《わ》いて出るか、それが兄さんには大いなる疑問になるのでした。
 二人はそんな事から神とか第一原因とかいう言葉をよく使いました。今から考えると解らずに使ったのでした。しかし口の先で使い慣れた結果、しまいには神もいつか陳腐《ちんぷ》になりました。それから二人とも申し合せたように黙りました。黙ってから何年目になるでしょう。私は静かな夏の朝の、海という深い色を沈める大きな器《うつわ》の前に立って、兄さんと相対しつつ、再び神という言葉を口にしたのであります。
 しかし兄さんはその言葉を全く忘れていました。思い出す気色《けしき》さえありませんでした。私の質問に対する返事としては、ただ微《かす》かな苦笑があの皮肉な唇《くちびる》の端を横切っただけでした。
 私は兄さんのこの態度で辟易《へきえき》するほどに臆病ではありませんでした。また思う事を云い終《おお》せずに引込むほど疎《うと》い間柄《あいだがら》でもありませんでした。私は一歩前へ進みました。
「どこの馬の骨だか分らない人間の顔を見てさえ、時々ありがたいという気が起るなら、円満な神の姿を束《つか》の間《ま》も離れずに拝んでいられる場合には、何百倍幸福になるか知れないじゃないか」
「そんな意味のない口先だけの論理《ロジック》が何の役に立つものかね。そんなら神を僕の前に連れて来て見せてくれるが好い」
 兄さんの調子にも兄さんの眉間《みけん》にも自烈《じれっ》たそうなものが顫動《せんどう》
前へ 次へ
全130ページ中115ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング