家の主人《あるじ》になりすまされたという気分が、人慣れない兄さんの胸に一種の落ちつきを与えるのが、その大原因だろうと思います。今までどこへ泊ってもよく寝られなかった兄さんは、ここへ来た晩からよく寝ます。現に今私がこうやって万年筆《まんねんふで》を走らしている間も、ぐうぐう寝ています。
もう一つここへ来てから偶然の恩恵に浴したと思うのは、普通の宿屋のように二人が始終《しじゅう》膝《ひざ》を突き合わして、一つの部屋にごろごろしていないですむ事です。家は今申した通り手狭《てぜま》至極《しごく》なものであります。門を出て右の坂上にある或る長者《ちょうじゃ》の拵《こしら》えた西洋館などに比べると全くの燐寸箱《マッチばこ》に過ぎません。それでも垣を囲《めぐ》らして四方から切り離した独立の一軒家です。窮屈ではあるが間数《まかず》は五つほどあります。兄さんと私は一つ座敷に吊《つ》った一つ蚊帳《かや》の中に寝ます。しかし宿屋と違って同じ時間に起きる必要はありません。片方が起きても、片方は寝たいだけ寝ていられます。私は兄さんをそっとしておいて、次の座敷に据《す》えてある一閑張《いっかんばり》の机に向う事ができます。昼もその通りです。二人差向いでいるのが苦痛になれば、どっちかが勝手に姿を隠して、自分に都合のいい事を、好な時間だけやります。それから適当な頃にまた出て来て顔を見せます。
私はこういう偶然を利用してこの手紙を書くのであります。そうしてこの偶然を思いがけなく利用する事のできた自分を、あなたのために仕合せと考えます。同時に、それを利用する必要を認め出した自分を、自分のために遺憾《いかん》だと思います。
私のいう事は順序からいうと日記体に纏《まと》まっておりません。分類からいうと科学的に区別が立たないかも知れません。しかしそれは汽車、俥《くるま》、宿、すべて規則的な仕事を妨《さまた》げる旅行というものの障害と、平気で取りかかりにくいというその仕事の性質とが、破壊的に働いた結果と思っていただくより仕方がありません。断片的にせよ下《しも》に述べるだけの事をあなたに報道し得るのがすでに私には意外なのであります。全く偶然の御蔭《おかげ》なのであります。
三十
我々は二人とも大した旅行癖《りょこうへき》のない男です。したがって我々の編み上げた旅程もまた経験相応に平凡でした。近くて便利な所を人並に廻って歩けば、それで目的の大半は達せられるくらいな考えで、まず相模《さがみ》伊豆|辺《あたり》をぼんやり心がけました。
それでも私の方が兄さんよりはまだましでした。私は主要な場所と、そこへ行くべき交通機関とをほぼ承知していましたが、兄さんに至ってはほとんど地理や方角を超越していました。兄さんは国府津《こうづ》が小田原《おだわら》の手前か先か知りませんでした。知らないというよりむしろ構わないのでしょう。これほど一方に無頓着《むとんじゃく》な兄さんが、なぜ人事上のあらゆる方面に、同じ平然たる態度を見せる事ができないのかと思うと、私は実際不思議な感に打たれざるを得ません。しかしそれは余事です。話が逸《そ》れると戻り悪《にく》くなりますから、なるべく本流を伝《つた》って、筋を離れないように進む事にしましょう。
我々は始め逗子《ずし》を基点として出発する事に相談をきめていました。ところがその朝新橋へ駆《か》けつける俥《くるま》の上で、ふと私の考えが変りました。いかに平凡な旅行にしても、真先に逗子へ行くのは、あまりに平凡過ぎて気が進まなくなったのです。私は停車場《ステーション》で兄さんに相談の仕直しをやりました。私は行程を逆にして、まず沼津から修善寺《しゅぜんじ》へ出て、それから山越《やまごし》に伊東の方へ下りようと云いました。小田原と国府津の後先《あとさき》さえ知らない兄さんに異存のあるはずがないので、我々はすぐ沼津までの切符を買って、そのまま東海道行の汽車に乗り込みました。
汽車中では報知に値《あたい》するような事が別に起りませんでした。先方へ着いても、風呂へ入ったり、飯を食ったり、茶を飲んだりする間は、これといって目に着く点もなかったのです。私は兄さんについて、これはことによると家族の人の参考のために、知らせておく必要があるかも知れないと思い出したのは、その日の晩になってからであります。
寝るには早過ぎました。話にはもう飽《あ》きました。私は旅行中に誰でも経験する一種の徒然《とぜん》に襲われました。ふと床の間の脇《わき》を見ると、そこに重そうな碁盤《ごばん》が一面あったので、私はすぐそれを室《へや》の真中へ持ち出しました。無論兄さんを相手に黒白《こくびゃく》を争うつもりでした。あなたは御存じだかどうだか知りませんが、私は学校にいた時分
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