い》な頭を下げなければならなかった。
 彼の家を再度|訪問《おとず》れたのは、それからまた二三日経った梅雨晴《つゆばれ》の夕方であった。肥《ふと》った彼は暑いと云って浴衣《ゆかた》の胸を胃の上部まで開け放って坐《すわ》っていた。
「さあどこへ行くかね。まだ海とも山ともきめていないんだが」
 Hさんだけあって行く先などはとんと苦《く》にしていないらしかった。自分もそれには無頓着《むとんじゃく》であった。けれども……。
「少しそれについて御願があるんですが」
 家庭の事情の一般は、この間三沢と来た時、すでにHさんの耳に入れてしまった。しかし兄と自分との間に横たわる一種特別な関係については、まだ一言《ひとこと》も彼に告げていなかった。しかしそれはいつまで経ってもHさんの前で自分から打ち明《あけ》るべき性質のものでないと自分は考えていた。親しい三沢の知識ですら、そこになるとほとんど臆測《おくそく》に過ぎなかった。Hさんは三沢からその臆測の知識を間接に受けているかも知れなかったけれども、こっちから露骨に切り出さない以上、その信偽《しんぎ》も程度も、まるで確める訳に行かなかった。
 自分は兄から今どう見られているか、どう思われているか、それが知りたくって仕方がなかった。それを知るために、この際Hさんの助《たすけ》を借りようとすれば、勢い万事を彼の前に投げ出して見せなければならなかった。自分が三沢に何事も云わずに、あたかも彼を出し抜いたような態度で、たった一人こうしてHさんを訪問するのも、実はその用事の真相をなるべく他《ひと》に知らせたくないからであった。しかし三沢に対してさえ、良心に気兼《きがね》をするような用事の真相なら、それをHさんの前で云われるはずがなかった。
 自分はやむをえず特殊《スペシャル》な問題を一般的《ジェネラル》に崩《くず》してしまった。
「はなはだ御迷惑かも知れませんが、兄といっしょに旅行される間、兄の挙動なり言語なり、思想なり感情なりについて、あなたの御観察になったところを、できるだけ詳《くわ》しく書いて報知していただく訳には行きますまいか。その辺が明瞭《めいりょう》になると、宅《たく》でも兄の取扱上大変|便宜《べんぎ》を得るだろうと思うんですが」
「そうさね。絶対にできない事もないが、ちっとむずかしそうですね。だいち時間がないじゃないか、君、そんな事をする。よし時間があっても、必要がないだろう。それより僕らが旅行から帰ったらゆっくり聞きに来たら好いじゃありませんか」

        二十三

 Hさんの云うところはもっともであった。自分は下を向いてしばらく黙っていたが、とうとう嘘《うそ》を吐《つ》いた。
「実は父や母が心配して、できるなら旅行中の模様を、経過の一段落ごとに承知したいと云うんですが……」
 自分は困った顔をした。Hさんは笑い出した。
「君そんなに心配する事はありませんよ。大丈夫だよ、僕が受け合うよ」
「しかし年寄ですから……」
「困るね、それじゃ。だから年寄は嫌《きら》いなんだ。宅《うち》へ行ってそう云いたまえな、大丈夫だって」
「何とか好い工夫はないもんでしょうか。あなたの御迷惑にならないで、そうして、父や母を満足させるような」
 Hさんはまたにやにや笑っていた。
「そんな重宝な工夫があるものかね、君。――しかしせっかくの御依頼だからこうしよう。もし旅先で報道するに足るような事が起ったら、君の所へ手紙を上げると。もし手紙が行かなかったら、平生の通りだと思って安心していると。それでよかろう」
 自分はこれより以上Hさんに望む事はできなかった。
「それで結構です。しかし出来事という意味を俗にいう不慮の出来事と取らずに、あなたが御観察になる兄の感情なり思想のうちで、これは尋常でないと御気づきになったものに応用していただけましょうか」
「なかなか面倒だね、事が。しかしまあいいや、そうしてもいい」
「それからことによると、僕の事だの母の事だの、家庭の事などが兄の口に上《のぼ》るかも知れませんが、それを御遠慮なく一々聞かしていただきたいと思いますが」
「うん、そりゃ差支《さしつか》えない限り知らせて上げましょう」
「差支えがあっても構わないから聞かしていただきたい。それでないと宅《うち》のものが困りますから」
 Hさんは黙って煙草《たばこ》を吹かし出した。自分は弱輩《じゃくはい》の癖に多少云い過ぎた事に気がついた。手持無沙汰《てもちぶさた》の感じが強く頭に上った。Hさんは庭の方を見ていた。その隅《すみ》に秋田から家主が持って来て植えたという大きな蕗《ふき》が五六本あった。雨上りの初夏の空がいつまでも明るい光を地の上に投げているので、その太い蕗の茎《くき》がすいすいと薄暗い中に青く描かれていた。
「あすこへ大き
前へ 次へ
全130ページ中107ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング