った。始めから囚《とら》われない自由な女であった。彼女の今までの行動は何物にも拘泥《こうでい》しない天真の発現に過ぎなかった。
 ある時はまた彼女がすべてを胸のうちに畳み込んで、容易に己を露出しないいわゆるしっかりもののごとく自分の眼に映じた。そうした意味から見ると、彼女はありふれたしっかりものの域《いき》を遥《はるか》に通り越していた。あの落ちつき、あの品位、あの寡黙《かもく》、誰が評しても彼女はしっかりし過ぎたものに違いなかった。驚くべく図々《ずうずう》しいものでもあった。
 ある刹那《せつな》には彼女は忍耐の権化《ごんげ》のごとく、自分の前に立った。そうしてその忍耐には苦痛の痕迹《こんせき》さえ認められない気高《けだか》さが潜《ひそ》んでいた。彼女は眉《まゆ》をひそめる代りに微笑した。泣き伏す代りに端然《たんぜん》と坐った。あたかもその坐っている席の下からわが足の腐れるのを待つかのごとくに。要するに彼女の忍耐は、忍耐という意味を通り越して、ほとんど彼女の自然に近いある物であった。
 一人の嫂《あによめ》が自分にはこういろいろに見えた。事務所の机の前、昼餐《ひるめし》の卓《たく》の上、帰《かえ》り途《みち》の電車の中、下宿の火鉢の周囲《まわり》、さまざまの所でさまざまに変って見えた。自分は他《ひと》の知らない苦しみを他に言わずに苦しんだ。その間思い切って番町へ出かけて行って、大体の様子を探るのがともかくも順序だとはしばしば胸に浮かんだ。けれども卑怯《ひきょう》な自分はそれをあえてする勇気をもたなかった。眼の前に怖《こわ》い物のあるのを知りながら、わざと見ないために瞼《まぶた》を閉じていた。
 すると五日目の土曜の午後に突然父から事務所の電話口まで呼び出された。
「御前は二郎かい」
「そうです」
「明日《あす》の朝ちょっと行くが好いかい」
「へえ」
「差支《さしつか》えがあるかい」
「いえ別に……」
「じゃ待っててくれ、好《い》いだろうね。さようなら」
 父はそれで電話を切ってしまった。自分は少からず狼狽《ろうばい》した。何の用事であるかをさえ確める余裕をもたなかった自分は、電話口を離れてから後悔した。もし用事があるなら呼びつけられそうなものだのにとすぐ変に思っても見た。父が向うから来るという違例な事が、この間の嫂の訪問に何か関係があるような気がして、自分の胸は一層不安になった。
 下宿に帰ったら、大阪の岡田から来た一枚の絵端書《えはがき》が机の上に載せてあった。それは彼ら夫婦が佐野とお貞さんを誘って、楽しい半日を郊外に暮らした記念であった。自分は机に向って長い間その絵端書を見つめていた。

        七

 日曜には思い切って寝坊をする癖のついていた自分も、次の朝だけは割合に早く起きた。飯を済まして新聞を読むと、その新聞が汽車を待ち合せる間に買って、せわしなく眼を通す時のように、何の見るところもないほど、つまらなく感ぜられた。自分はすぐ新聞を棄《す》てた。しかし五六分|経《た》たないうちにまたそれを取り上げた。自分は煙草を吸ったり、眼鏡《めがね》の曇《くもり》を丁寧《ていねい》に拭《ぬぐ》ったり、いろいろな所作《しょさ》をして、父の来るのを待ち受けた。
 父は容易に来なかった。自分は父の早起をよく承知していた。彼の性急《せっかち》にも子供のうちから善《よ》く馴《な》らされていた。落ちつかない自分は、電話でもかけて、どうしたのかこっちから父の都合を聞いて見ようかと思った。
 母に狎《な》れ抜いた自分は、常から父を憚《はばか》っていた。けれども、本当の底を割って見ると、柔和《やさ》しい母の方が、苛酷《きび》しい父よりはかえって怖《こわ》かった。自分は父に怒られたり小言を云われたりする時に、恐縮はしながらも、やっぱり男は男だと腹の中で思う事がたびたびあった。けれどもこの場合はいつもと違っていた。いくら父でもそう容易《たやす》く高を括《くく》る訳に行かなかった。電話をかけようとした自分はまたかけ得ずにしまった。
 父はとうとう十時頃になってやって来た。羽織《はおり》袴《はかま》で少しきまり過ぎた服装《なり》はしていたが、顔つきは存外穏かであった。小さい時から彼の手元で育った自分は、事のあるかないかを彼の顔色からすぐ判断する功を積んでいた。
「もっと早くおいでだろうと思って先刻《さっき》から待っていました」
「おおかた床の中で待ってたんだろう。早いのはいくら早くっても驚かないが、御前に気の毒だからわざと遅く出かけたのさ」
 父は自分の汲《く》んで出した茶を、飲むように甞《な》めるように、口の所へ持って行って、室《へや》の中をじろじろ見廻した。室には机と本箱と火鉢があるだけであった。
「好い室だね」
 父は自分達に対してもよくこ
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