ら来る自転車だの俥だのと幾度《いくたび》か衝突しそうにした。自分ははらはらしながら病院の前に降《お》ろされた。
鞄を持ったまま三階に上《あが》った自分は、三沢を探すため方々の室《へや》を覗《のぞ》いて歩いた。三沢は廊下の突き当りの八畳に、氷嚢《ひょうのう》を胸の上に載《の》せて寝ていた。
「どうした」と自分は室に入るや否や聞いた。彼は何も答えずに苦笑している。「また食い過ぎたんだろう」と自分は叱るように云ったなり、枕元に胡坐《あぐら》をかいて上着《うわぎ》を脱いだ。
「そこに蒲団《ふとん》がある」と三沢は上眼《うわめ》を使って、室の隅《すみ》を指した。自分はその眼の様子と頬の具合を見て、これはどのくらい重い程度の病気なんだろうと疑った。
「看護婦はついてるのかい」
「うん。今どこかへ出て行った」
十三
三沢は平生から胃腸のよくない男であった。ややともすると吐いたり下したりした。友達はそれを彼の不養生からだと評し合った。当人はまた母の遺伝で体質から来るんだから仕方がないと弁解していた。そうして消化器病の書物などをひっくり返して、アトニーとか下垂性《かすいせい》とかトーヌスとかいう言葉を使った。自分などが時々彼に忠告めいた事をいうと、彼は素人《しろうと》が何を知るものかと云わぬばかりの顔をした。
「君アルコールは胃で吸収されるものか、腸で吸収されるものか知ってるか」などと澄ましていた。そのくせ病気になると彼はきっと自分を呼んだ。自分もそれ見ろと思いながら必ず見舞に出かけた。彼の病気は短くて二三日長くて一二週間で大抵は癒《なお》った。それで彼は彼の病気を馬鹿にしていた。他人の自分はなおさらであった。
けれどもこの場合自分はまず彼の入院に驚かされていた。その上に胃の上の氷嚢《ひょうのう》でまた驚かされた。自分はそれまで氷嚢は頭か心臓の上でなければ載《の》せるものでないとばかり信じていたのである。自分はぴくんぴくんと脈を打つ氷嚢を見つめて厭《いや》な心持になった。枕元に坐っていればいるほど、付景気《つけげいき》の言葉がだんだん出なくなって来た。
三沢は看護婦に命じて氷菓子《アイスクリーム》を取らせた。自分がその一杯に手を着けているうちに、彼は残る一杯を食うといい出した。自分は薬と定食以外にそんなものを口にするのは好くなかろうと思ってとめにかかった。すると三沢は怒った。
「君は一杯の氷菓子を消化するのに、どのくらい強壮な胃が必要だと思うのか」と真面目《まじめ》な顔をして議論を仕かけた。自分は実のところ何にも知らないのである。看護婦は、よかろうけれども念のためだからと云って、わざわざ医局へ聞きに行った。そうして少量なら差支《さしつかえ》ないという許可を得て来た。
自分は便所に行くとき三沢に知れないように看護婦を呼んで、あの人の病気は全体何というんだと聞いて見た。看護婦はおおかた胃が悪いんだろうと答えた。それより以上の事を尋ねると、今朝看護婦会から派出されたばかりで、何もまだ分らないんだと云って平気でいた。仕方なしに下へ降りて医員に尋ねたら、その男もまだ三沢の名を知らなかった。けれども患者の病名だの処方だのを書いた紙箋《しせん》を繰って、胃が少し糜爛《ただ》れたんだという事だけ教えてくれた。
自分はまた三沢の傍《そば》へ行った。彼は氷嚢を胃の上に載せたまま、「君その窓から外を見てみろ」、と云った。窓は正面に二つ側面に一つあったけれども、いずれも西洋式で普通より高い上に、病人は日本の蒲団《ふとん》を敷いて寝ているんだから、彼の眼には強い色の空と、電信線の一部分が筋違《すじかい》に見えるだけであった。
自分は窓側《まどぎわ》に手を突いて、外を見下《みおろ》した。すると何よりもまず高い煙突から出る遠い煙が眼に入《い》った。その煙は市全体を掩《おお》うように大きな建物の上を這《は》い廻っていた。
「河が見えるだろう」と三沢が云った。
大きな河が左手の方に少し見えた。
「山も見えるだろう」と三沢がまた云った。
山は正面にさっきから見えていた。
それが暗《くら》がり峠《とうげ》で、昔は多分大きな木ばかり生えていたのだろうが、今はあの通り明るい峠に変化したんだとか、もう少しするとあの山の下を突《つ》き貫《ぬ》いて、奈良へ電車が通うようになるんだとか、三沢は今誰かから聞いたばかりの事を元気よく語った。自分はこれなら大した心配もないだろうと思って病院を出た。
十四
自分は別に行く所もなかったので、三沢の泊った宿の名を聞いて、そこへ俥《くるま》で乗りつけた。看護婦はつい近くのように云ったが、始めての自分にはかなりの道程《みちのり》と思われた。
その宿には玄関も何にもなかった。這入《はい》ってもいらっ
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