掛けているため、ぴしゃぴしゃする響が、下からよく聞こえた。お貞さんのは素足の上に、女のつつましやかな気性《きしょう》をあらわすせいか、まるで聴《き》き取れなかった。戸を開けて戸を閉じる音さえ、自分の耳には全く這入《はい》らなかった。
彼ら二人はそこで約三十分ばかり何か話していた。その間嫂は平生の冷淡さに引き換えて、尋常《なみ》のものより機嫌《きげん》よく話したり笑ったりした。けれどもその裏に不機嫌を蔵《かく》そうとする不自然の努力が強く潜在している事が自分によく解った。岡田は平気でいた。
自分は彼女が兄と会見を終って、自分達の室《へや》の横を通る時、その足音を聞きつけて、用あり気に不意と廊下へ出た。ばったり出逢《であ》った彼女の顔は依然として恥ずかしそうに赤く染《そま》っていた。彼女は眼を俯《ふ》せて、自分の傍《そば》を擦《す》り抜けた。その時自分は彼女の瞼《まぶた》に涙の宿った痕迹《こんせき》をたしかに認めたような気がした。けれども書斎に入《い》った彼女が兄と差向いでどんな談話をしたか、それはいまだに知る事を得ない。自分だけではない、その委細を知っているものは、彼ら二人より以外に、おそらく天下に一人もあるまいと思う。
三十五
自分は親戚の片割《かたわれ》として、お貞さんの結婚式に列席するよう、父母から命ぜられていた。その日はちょうど雨がしょぼしょぼ降って、婚礼には似合しからぬ佗《わ》びしい天気であった。いつもより早く起きて番町へ行って見ると、お貞さんの衣裳《いしょう》が八畳の間に取り散らしてあった。
便所へ行った帰りに風呂場の口を覗《のぞ》いて見たら、硝子戸《ガラスど》が半分|開《あ》いて、その中にお貞さんのお化粧をしている姿がちらりと見えた。それから「あらそこへ障《さわ》っちゃ厭《いや》ですよ」という彼女の声が聞こえた。芳江は面白半分何か悪戯《いたずら》をすると見えた。自分も芳江の真似《まね》をやろうと思ったが、場合が場合なのでつい遠慮して茶の間へ戻った。
しばらくしてから、また八畳へ出て見ると、みんながお召換《めしかえ》をやっていた。芳江が「あのお貞さんは手へも白粉《おしろい》を塗《つ》けたのよ」と大勢に吹聴《ふいちょう》していた。実を云うと、お貞さんは顔よりも手足の方が赤黒かったのである。
「大変真白になったな。亭主を欺瞞《だま》すんだから善《よ》くない」と父が調戯《からか》っていた。
「あしたになったら旦那様《だんなさま》がさぞ驚くでしょう」と母が笑った。お貞さんも下を向いて苦笑した。彼女は初めて島田に結った。それが予期できなかった斬新《ざんしん》の感じを自分に与えた。
「この髷《まげ》でそんな重いものを差したらさぞ苦しいでしょうね」と自分が聞くと、母は「いくら重くっても、生涯《しょうがい》に一度はね……」と云って、己《おの》れの黒紋付《くろもんつき》と白襟《しろえり》との合い具合をしきりに気にしていた。お貞さんの帯は嫂《あによめ》が後へ廻って、ぐっと締めてやった。
兄は例の臭《くさ》い巻煙草《まきたばこ》を吹かしながら広い縁側《えんがわ》をあちらこちらと逍遥《しょうよう》していた。彼はこの結婚に、まるで興味をもたないような、また彼一流の批評を心の中に加えているような、判断のでき悪《にく》い態度をあらわして、時々我々のいる座敷を覗《のぞ》いた。けれどもちょっと敷居際《しきいぎわ》にとまるだけでけっして中へは這入《はい》らなかった。「仕度《したく》はまだか」とも催促しなかった。彼はフロックに絹帽《シルクハット》を被《かぶ》っていた。
いよいよ出る時に、父は一番綺麗な俥《くるま》を択《よ》って、お貞さんを乗せてやった。十一時に式があるはずのところを少し時間が後《おく》れたため岡田は太神宮の式台へ出て、わざわざ我々を待っていた。皆《みん》ながどやどやと一度に控所に這入ると、そこにはお婿《むこ》さんがただ一人質に取られた置物のように椅子《いす》へ腰をかけていた。やがて立ち上がって、一人一人に挨拶《あいさつ》をするうちに、自分は控所にある洋卓《テーブル》やら、絨氈《じゅうたん》やら、白木《しらき》の格天井《ごうてんじょう》やらを眺めた。突き当りには御簾《みす》が下りていて、中には何か在《あ》るらしい気色《けしき》だけれども、奥の全く暗いため何物をも髣髴《ほうふつ》する事ができなかった。その前には鶴と浪《なみ》を一面に描いためでたい一双の金屏風《きんびょうぶ》が立て廻してあった。
縁女《えんじょ》と仲人《なこうど》の奥さんが先、それから婿と仲人の夫、その次へ親類がつづくという順を、袴《はかま》羽織《はおり》の男が出て来て教えてくれたが、肝腎《かんじん》の仲人たるべき岡田はお兼さんを連れて来なか
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