自分の眼を射るように思われたり、家並《いえなみ》が締りのない東京より整って好ましいように見えたり、河が幾筋もあってその河には静かな水が豊かに流れていたり、眼先の変った興味が日に一つ二つは必ずあった。
佐野には浜寺でいっしょに飯を食った次の晩また会った。今度は彼の方から浴衣《ゆかた》がけで岡田を尋ねて来た。自分はその時もかれこれ二時間余り彼と話した。けれどもそれはただ前日の催しを岡田の家で小規模に繰返したに過ぎなかったので、新しい印象と云っては格別頭に残りようがなかった。だから本当をいうとただ世間並の人というほかに、自分は彼について何も解らなかった。けれどもまた母や岡田に対する義務としては、何も解らないで澄ましている訳にも行かなかった。自分はこの二三日の間に、とうとう東京の母へ向けて佐野と会見を結了《けつりょう》した旨《むね》の報告を書いた。
仕方がないから「佐野さんはあの写真によく似ている」と書いた。「酒は呑《の》むが、呑んでも赤くならない」と書いた。「御父さんのように謡《うたい》をうたう代りに義太夫を勉強しているそうだ」と書いた。最後に岡田夫婦と仲の好さそうな様子を述べて、「あれほど仲の好い岡田さん夫婦の周旋だから間違はないでしょう」と書いた。一番しまいに、「要するに、佐野さんは多数の妻帯者と変ったところも何もないようです。お貞《さだ》さんも普通の細君になる資格はあるんだから、承諾したら好いじゃありませんか」と書いた。
自分はこの手紙を封じる時、ようやく義務が済んだような気がした。しかしこの手紙一つでお貞さんの運命が永久に決せられるのかと思うと、多少自分のおっちょこちょいに恥入るところもあった。そこで自分はこの手紙を封筒へ入《いれ》たまま、岡田の所へ持って行った。岡田はすうと眼を通しただけで、「結構」と答えた。お兼さんは、てんで巻紙に手を触れなかった。自分は二人の前に坐って、双方を見較《みくら》べた。
「これで好いでしょうかね。これさえ出してしまえば、宅《うち》の方はきまるんです。したがって佐野さんもちょっと動けなくなるんですが」
「結構です。それが僕らの最も希望するところです」と岡田は開き直っていった。お兼さんは同じ意味を女の言葉で繰《く》り返した。二人からこう事もなげに云われた自分は、それで安心するよりもかえって心元なくなった。
「何がそんなに気になるんです」と岡田が微笑しながら煙草《たばこ》の煙を吹いた。「この事件について一番冷淡だったのは君じゃありませんか」
「冷淡にゃ違ないが、あんまりお手軽過ぎて、少し双方に対して申訳がないようだから」
「お手軽どころじゃございません、それだけ長い手紙を書いていただけば。それでお母さまが御満足なさる、こちらは初《はじめ》からきまっている。これほどおめでたい事はないじゃございませんか、ねえあなた」
お兼さんはこういって、岡田の方を見た。岡田はそうともと云わぬばかりの顔をした。自分は理窟《りくつ》をいうのが厭《いや》になって、二人の目の前で、三銭切手を手紙に貼《は》った。
十一
自分はこの手紙を出しっきりにして大阪を立退《たちの》きたかった。岡田も母の返事の来るまで自分にいて貰う必要もなかろうと云った。
「けれどもまあ緩《ゆっ》くりなさい」
これが彼のしばしば繰り返す言葉であった。夫婦の好意は自分によく解っていた。同時に彼らの迷惑もまたよく想像された。夫婦ものに自分のような横着《おうちゃく》な泊り客は、こっちにも多少の窮屈《きゅうくつ》は免《まぬ》かれなかった。自分は電報のように簡単な端書《はがき》を書いたぎり何の音沙汰《おとさた》もない三沢が悪《にく》らしくなった。もし明日中《あしたじゅう》に何とか音信《たより》がなければ、一人で高野登りをやろうと決心した。
「じゃ明日は佐野を誘って宝塚《たからづか》へでも行きましょう」と岡田が云い出した。自分は岡田が自分のために時間の差繰《さしくり》をしてくれるのが苦《く》になった。もっと皮肉を云えば、そんな温泉場へ行って、飲んだり食ったりするのが、お兼さんにすまないような気がした。お兼さんはちょっと見ると、派出好《はでずき》の女らしいが、それはむしろ色白な顔立や様子がそう思わせるので、性質からいうと普通の東京ものよりずっと地味《じみ》であった。外へ出る夫の懐中にすら、ある程度の束縛を加えるくらい締っているんじゃないかと思われた。
「御酒《ごしゅ》を召上らない方《かた》は一生のお得ですね」
自分の杯《さかずき》に親しまないのを知ったお兼さんは、ある時こういう述懐《じゅっかい》を、さも羨《うらや》ましそうに洩《も》らした事さえある。それでも岡田が顔を赤くして、「二郎さん久しぶりに相撲《すもう》でも取りましょうか」と野
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