て遠い未来は全く頭の中に浮かんで来なかったって」
「無邪気なものですね」と兄はむしろ賛嘆《さんたん》の口《くち》ぶりを見せた。今まで黙っていた客が急に兄に賛成して、「全くのところ無邪気だ」とか「なるほど若いものになるといかにも一図《いちず》ですな」とか云った。
「ところが一週間|経《た》つか経たないうちにそいつが後悔し始めてね、なに女は平気なんだが、そいつが自分で恐縮してしまったのさ。坊ちゃんだけに意気地のない事ったら。しかし正直ものだからとうとう女に対してまともに結婚破約を申し込んで、しかもきまりの悪そうな顔をして、御免《ごめん》よとか何とか云って謝罪《あや》まったんだってね。そこへ行くとおない年だって先は女だもの、『御免よ』なんて子供らしい言葉を聞けば可愛《かわ》いくもなるだろうが、また馬鹿馬鹿しくもなるだろうよ」
 父は大きな声を出して笑った。御客もその反響のごとくに笑った。兄だけはおかしいのだか、苦々《にがにが》しいのだか変な顔をしていた。彼の心にはすべてこう云う物語が厳粛な人生問題として映るらしかった。彼の人生観から云ったら父の話しぶりさえあるいは軽薄に響いたかもしれない。
 父の語るところを聞くと、その女はしばらくしてすぐ暇を貰ってそこを出てしまったぎり再び顔を見せなかったけれども、その男はそれ以来二三カ月の間何か考え込んだなり魂が一つ所にこびりついたように動かなかったそうである。一遍その女が近所へ来たと云って寄った時などでも、ほかの人の手前だか何だかほとんど一口も物を云わなかった。しかもその時はちょうど午飯《ひるめし》の時で、その女が昔の通り御給仕をしたのだが、男はまるで初対面の者にでも逢《あ》ったように口数《くちかず》を利《き》かなかった。
 女もそれ以来けっして男の家の敷居を跨《また》がなかった。男はまるでその女の存在を忘れてしまったように、学校を出て家庭を作って、二十何年というつい近頃まで女とは何らの交渉もなく打過ぎた。

        十五

「それだけで済めばまあただの逸話さ。けれども運命というものは恐しいもので……」と父がまた語り続けた。
 自分は父が何を云い出すかと思って、彼の顔から自分の眼を離し得なかった。父の物語りの概要を摘《つま》んで見ると、ざっとこうであった。
 その男がその女をまるで忘れた二十何年の後《のち》、二人が偶然運命の手引で不意に会った。会ったのは東京の真中であった。しかも有楽座で名人会とか美音会《びおんかい》とかのあった薄ら寒い宵《よい》の事だそうである。
 その時男は細君と女の子を連れて、土間《どま》の何列目か知らないが、かねて注文しておいた席に並んでいた。すると彼らが入場して五分|経《た》つか立たないのに、今云った女が他の若い女に手を引かれながら這入《はい》って来た。彼らも電話か何かで席を予約しておいたと見えて、男の隣にあるエンゲージドと紙札を張った所へ案内されたままおとなしく腰をかけた。二人はこういう奇妙な所で、奇妙に隣合わせに坐った。なおさら奇妙に思われたのは、女の方が昔と違った表情のない盲目《めくら》になってしまって、ほかにどんな人がいるか全く知らずに、ただ舞台から出る音楽の響にばかり耳を傾けているという、男に取ってはまるで想像すらし得なかった事実であった。
 男は始め自分の傍《そば》に坐る女の顔を見て過去二十年の記憶を逆《さか》さに振られたごとく驚ろいた。次に黒い眸《ひとみ》をじっと据《す》えて自分を見た昔の面影《おもかげ》が、いつの間にか消えていた女の面影に気がついて、また愕然《がくぜん》として心細い感に打たれた。
 十時過まで一つの席にほとんど身動きもせずに坐っていた男は、舞台で何をやろうが、ほとんど耳へは這入らなかった。ただ女に別れてから今日《こんにち》に至る運命の暗い糸を、いろいろに想像するだけであった。女はまたわが隣にいる昔の人を、見もせず、知りもせず、全く意識に上《のぼ》す暇《いとま》もなく、ただ自然に凋落《ちょうらく》しかかった過去の音楽に、やっとの思いで若い昔を偲《しの》ぶ気色《けしき》を濃い眉《まゆ》の間に示すに過ぎなかった。
 二人は突然として邂逅《かいこう》し、突然として別れた。男は別れた後《のち》もしばしば女の事を思い出した。ことに彼女の盲目が気にかかった。それでどうかして女のいる所を突きとめようとした。
「馬鹿正直なだけに熱心な男だもんだから、とうとう成功した。その筋道も聞くには聞いたが、くだくだしくって忘れちまったよ。何でも彼がその次に有楽座へ行った時、案内者を捕《つら》まえて、何とかかんとかした上に、だいぶ込み入った手数《てかず》をかけたんだそうだ」
「どこにいたんですその女は」と自分は是非確めたくなった。
「それは秘密だ。名前や所はい
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