に懸けた古めかしい座敷であった。柱は時代で黒く光っていた。天井《てんじょう》にも煤《すす》の色が一面に見えた。嫂は例の傘を次の間《ま》の衣桁《いこう》に懸けて、「ここは向うが高い棟《むね》で、こっちが厚い練塀《ねりべい》らしいから風の音がそんなに聞えないけれど、先刻《さっき》俥へ乗った時は大変ね。幌《ほろ》の上でひゅひゅいうのが気味が悪かったぐらいよ。あなた風の重みが俥の幌に乗《の》しかかって来るのが乗ってて分ったでしょう。妾《あたし》もう少しで俥が引《ひ》っ繰返《くりかえ》るかも知れないと思ったわ」と云った。
自分は少し逆上していたので、そんな事はよく注意していられなかった。けれどもその通りを真直《まっすぐ》に答えるほどの勇気もなかった。
「ええずいぶんな風でしたね」とごまかした。
「ここでこのくらいじゃ、和歌の浦はさぞ大変でしょうね」と嫂が始めて和歌の浦の事を云い出した。
自分は胸がまたわくわくし出した。「姐《ねえ》さんここの電話も切れてるのかね」と云って、答えも待たずに風呂場に近い電話口まで行った。そこで帳面を引っ繰返しながら、号鈴《ベル》をしきりに鳴らして、母と兄の泊っている和歌の浦の宿へかけて見た。すると不思議に向うで二言三言何か云ったような気がするので、これはありがたいと思いつつなお暴風雨《あらし》の模様を聞こうとすると、またさっぱり通じなくなった。それから何遍もしもしと呼んでもいくら号鈴を鳴らしても、呼《よ》び甲斐《がい》も鳴らし甲斐も全く無くなったので、ついに我《が》を折ってわが部屋へ引き戻して来た。嫂は蒲団《ふとん》の上に坐《すわ》って茶を啜《すす》っていたが、自分の足音を聴きつつふり返って、「電話はどうして? 通じて?」と聞いた。自分は電話について今の一部始終《いちぶしじゅう》を説明した。
「おおかたそんな事だろうと思った。とても駄目よ今夜は。いくらかけたって、風で電話線を吹き切っちまったんだから。あの音を聞いたって解るじゃありませんか」
風はどこからか二筋に綯《よ》れて来たのが、急に擦違《すれちがい》になって唸《うな》るような怪しい音を立てて、また虚空遥《こくうはるか》に騰《のぼ》るごとくに見えた。
三十五
二人が風に耳を峙《そば》だてていると、下女が風呂の案内に来た。それから晩食《ばんめし》を食うかと聞いた。自分は晩食などを欲しいと思う気になれなかった。
「どうします」と嫂《あによめ》に相談して見た。
「そうね。どうでもいいけども。せっかく泊ったもんだから、御膳《おぜん》だけでも見た方がいいでしょう」と彼女は答えた。
下女が心得て立って行ったかと思うと、宅中《うちじゅう》の電灯がぱたりと消えた。黒い柱と煤《すす》けた天井でたださえ陰気な部屋が、今度は真暗《まっくら》になった。自分は鼻の先に坐《すわ》っている嫂を嗅《か》げば嗅がれるような気がした。
「姉さん怖《こわ》かありませんか」
「怖いわ」という声が想像した通りの見当で聞こえた。けれどもその声のうちには怖らしい何物をも含んでいなかった。またわざと怖がって見せる若々しい蓮葉《はすは》の態度もなかった。
二人は暗黒のうちに坐っていた。動かずにまた物を云わずに、黙って坐っていた。眼に色を見ないせいか、外の暴風雨《あらし》は今までよりは余計耳についた。雨は風に散らされるのでそれほど恐ろしい音も伝えなかったが、風は屋根も塀《へい》も電柱も、見境《みさかい》なく吹き捲《めく》って悲鳴を上げさせた。自分達の室《へや》は地面の上の穴倉みたような所で、四方共|頑丈《がんじょう》な建物だの厚い塗壁だのに包《かこ》まれて、縁の前の小さい中庭さえ比較的安全に見えたけれども、周囲一面から出る一種|凄《すさま》じい音響は、暗闇《くらやみ》に伴って起る人間の抵抗しがたい不可思議な威嚇《いかく》であった。
「姉さんもう少しだから我慢なさい。今に女中が灯《ひ》を持って来るでしょうから」
自分はこう云って、例の見当から嫂の声が自分の鼓膜《こまく》に響いてくるのを暗に予期していた。すると彼女は何事をも答えなかった。それが漆《うるし》に似た暗闇の威力で、細い女の声さえ通らないように思われるのが、自分には多少無気味であった。しまいに自分の傍《そば》にたしかに坐っているべきはずの嫂の存在が気にかかり出した。
「姉さん」
嫂はまだ黙っていた。自分は電気灯の消えない前、自分の向うに坐っていた嫂の姿を、想像で適当の距離に描き出した。そうしてそれを便りにまた「姉さん」と呼んだ。
「何よ」
彼女の答は何だか蒼蠅《うるさ》そうであった。
「いるんですか」
「いるわあなた。人間ですもの。嘘《うそ》だと思うならここへ来て手で障《さわ》って御覧なさい」
自分は手捜《てさぐ
前へ
次へ
全130ページ中51ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング