ます」
お兼さんは笑い出した。自分もおかしくなった。と云うのは、その男の写真を見て、お凸額だと云い始めたものは、実のところ自分だからである。
「お重《しげ》さんでしょう、そんな悪口をいうのは。あの人の口にかかっちゃ、たいていのものは敵《かな》わないからね」
岡田は自分の妹のお重を大変口の悪い女だと思っている。それも彼がお重から、あなたの顔は将棋《しょうぎ》の駒《こま》見たいよと云われてからの事である。
「お重さんに何と云われたって構わないが肝心《かんじん》の当人はどうなんです」
自分は東京を立つとき、母から、貞《さだ》には無論異存これなくという返事を岡田の方へ出しておいたという事を確めて来たのである。だから、当人は母から上げた返事の通りだと答えた。岡田夫婦はまた佐野《さの》という婿《むこ》になるべき人の性質や品行や将来の望みや、その他いろいろの条項について一々自分に話して聞かせた。最後に当人がこの縁談の成立を切望している例などを挙げた。
お貞さんは器量から云っても教育から云っても、これという特色のない女である。ただ自分の家の厄介《やっかい》ものという名があるだけである。
「先方があまり乗気になって何だか剣呑《けんのん》だから、あっちへ行ったらよく様子を見て来ておくれ」
自分は母からこう頼まれたのである。自分はお貞さんの運命について、それほど多くの興味はもち得なかったけれども、なるほどそう望まれるのは、お貞さんのために結構なようでまた危険な事だろうとも考えていた。それで今まで黙って岡田夫婦の云う事を聞いていた自分は、ふと口を滑《すべ》らした。――
「どうしてお貞さんが、そんなに気に入ったものかな。まだ会った事もないのに」
「佐野さんはああいうしっかりした方だから、やっぱり辛抱人《しんぼうにん》を御貰《おもら》いになる御考えなんですよ」
お兼さんは岡田の方を向いて、佐野の態度をこう弁解した。岡田はすぐ、「そうさ」と答えた。そうしてそのほかには何も考えていないらしかった。自分はとにかくその佐野という人に明日《あした》会おうという約束を岡田として、また六畳の二階に上った。頭を枕《まくら》に着けながら、自分の結婚する場合にも事がこう簡単に運ぶのだろうかと考えると、少し恐ろしい気がした。
八
翌日《あくるひ》岡田は会社を午《ひる》で切上げて帰って来た。洋服を投出すが早いか勝手へ行って水浴をして「さあ行こう」と云い出した。
お兼さんはいつの間にか箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》を開けて、岡田の着物を取り出した。自分は岡田が何を着るか、さほど気にも留めなかったが、お兼さんの着せ具合や、帯の取ってやり具合には、知らず知らず注意を払っていたものと見えて、「二郎さんあなた仕度《したく》は好いんですか」と聞かれた時、はっと気がついて立ち上った。
「今日はお前も行くんだよ」と岡田はお兼さんに云った。「だって……」とお兼さんは絽《ろ》の羽織を両手で持ちながら、夫の顔を見上げた。自分は梯子段《はしごだん》の中途で、「奥さんいらっしゃい」と云った。
洋服を着て下へ降りて見ると、お兼さんはいつの間にかもう着物も帯も取り換えていた。
「早いですね」
「ええ早変り」
「あんまり変り栄《ばえ》もしない服装《なり》だね」と岡田が云った。
「これでたくさんよあんな所《とこ》へ行くのに」とお兼さんが答えた。
三人は暑《あつさ》を冒《おか》して岡を下《くだ》った。そうして停車場からすぐ電車に乗った。自分は向側に並んで腰をかけた岡田とお兼さんを時々見た。その間には三沢の突飛《とっぴ》な葉書を思い出したりした。全体あれはどこで出したものなんだろうと考えても見た。これから会いに行く佐野という男の事も、ちょいちょい頭に浮んだ。しかしそのたんびに「物好《ものずき》」という言葉がどうしてもいっしょに出て来た。
岡田は突然体を前に曲げて、「どうです」と聞いた。自分はただ「結構です」と答えた。岡田は元のように腰から上を真直《まっすぐ》にして、何かお兼さんに云った。その顔には得意の色が見えた。すると今度はお兼さんが顔を前へ出して「御気に入ったら、あなたも大阪《こちら》へいらっしゃいませんか」と云った。自分は覚えず「ありがとう」と答えた。さっきどうですと突然聞いた岡田の意味は、この時ようやく解った。
三人は浜寺《はまでら》で降りた。この地方の様子を知らない自分は、大《おおき》な松と砂の間を歩いてさすがに好い所だと思った。しかし岡田はここでは「どうです」を繰返さなかった。お兼さんも洋傘《こうもり》を開いたままさっさと行った。
「もう来ているだろうか」
「そうね。ことに因《よ》るともう来て待っていらっしゃるかも知れないわ」
自分は二人の後《あと》に跟《
前へ
次へ
全130ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング