かと騒いだ。
「姉さん、芝の愛宕様《あたごさま》じゃありませんよ」と自分は云ってやった。
「だって遠眼鏡ぐらいあったって好いじゃありませんか」と嫂はまだ不足を並べていた。
夕方になって自分はとうとう兄に引っ張られて紀三井寺《きみいでら》へ行った。これは婦人|連《れん》が昨日すでに参詣《さんけい》したというのを口実に、我々二人だけが行く事にしたのであるが、その実兄の依頼を聞くために自分が彼から誘い出されたのである。
自分達は母の見ただけで恐れたという高い石段を一直線に上《のぼ》った。その上は平《ひら》たい山の中腹で眺望《ちょうぼう》の好い所にベンチが一つ据《す》えてあった。本堂は傍《そば》に五重の塔を控えて、普通ありふれた仏閣よりも寂《さび》があった。廂《ひさし》の最中《まんなか》から下《さが》っている白い紐《ひも》などはいかにも閑静に見えた。
自分達は何物も眼を遮《さえぎ》らないベンチの上に腰をおろして並び合った。
「好い景色ですね」
眼の下には遥《はるか》の海が鰯《いわし》の腹のように輝いた。そこへ名残《なごり》の太陽が一面に射して、眩《まば》ゆさが赤く頬を染めるごとくに感じた。沢《さわ》らしい不規則な水の形もまた海より近くに、平たい面を鏡のように展《の》べていた。
兄は例の洋杖《ステッキ》を顋《あご》の下に支えて黙っていたが、やがて思い切ったという風に自分の方を向いた。
「二郎|実《じつ》は頼みがあるんだが」
「ええ、それを伺うつもりでわざわざ来たんだからゆっくり話して下さい。できる事なら何でもしますから」
「二郎実は少し云い悪《にく》い事なんだがな」
「云い悪い事でも僕だから好いでしょう」
「うんおれは御前を信用しているから話すよ。しかし驚いてくれるな」
自分は兄からこう云われた時に、話を聞かない先《さき》にまず驚いた。そうしてどんな注文が兄の口から出るかを恐れた。兄の気分は前云った通り変り易《やす》かった。けれどもいったん何か云い出すと、意地にもそれを通さなければ承知しなかった。
二十四
「二郎驚いちゃいけないぜ」と兄が繰返した。そうして現に驚いている自分を嘲《あざ》けるごとく見た。自分は今の兄と権現社頭《ごんげんしゃとう》の兄とを比較してまるで別人の観《かん》をなした。今の兄は翻《ひる》がえしがたい堅い決心をもって自分に向っているとしか自分には見えなかった。
「二郎おれは御前を信用している。御前の潔白な事はすでに御前の言語が証明している。それに間違はないだろう」
「ありません」
「それでは打ち明けるが、実は直《なお》の節操《せっそう》を御前に試《ため》して貰《もら》いたいのだ」
自分は「節操を試す」という言葉を聞いた時、本当に驚いた。当人から驚くなという注意が二遍あったにかかわらず、非常に驚いた。ただあっけに取られて、呆然《ぼうぜん》としていた。
「なぜ今になってそんな顔をするんだ」と兄が云った。
自分は兄の眼に映じた自分の顔をいかにも情《なさけ》なく感ぜざるを得なかった。まるでこの間の会見とは兄弟地を換えて立ったとしか思えなかった。それで急に気を取り直した。
「姉さんの節操を試すなんて、――そんな事は廃《よ》した方が好いでしょう」
「なぜ」
「なぜって、あんまり馬鹿らしいじゃありませんか」
「何が馬鹿らしい」
「馬鹿らしかないかも知れないが、必要がないじゃありませんか」
「必要があるから頼むんだ」
自分はしばらく黙っていた。広い境内《けいだい》には参詣人《さんけいにん》の影も見えないので、四辺《あたり》は存外|静《しずか》であった。自分はそこいらを見廻して、最後に我々二人の淋《さび》しい姿をその一隅に見出した時、薄気味の悪い心持がした。
「試すって、どうすれば試されるんです」
「御前と直が二人で和歌山へ行って一晩泊ってくれれば好いんだ」
「下らない」と自分は一口に退《しり》ぞけた。すると今度は兄が黙った。自分は固《もと》より無言であった。海に射《い》りつける落日《らくじつ》の光がしだいに薄くなりつつなお名残《なごり》の熱を薄赤く遠い彼方《あなた》に棚引《たなび》かしていた。
「厭《いや》かい」と兄が聞いた。
「ええ、ほかの事ならですが、それだけは御免《ごめん》です」と自分は判切《はっき》り云い切った。
「じゃ頼むまい。その代りおれは生涯《しょうがい》御前を疑ぐるよ」
「そりゃ困る」
「困るならおれの頼む通りやってくれ」
自分はただ俯向《うつむ》いていた。いつもの兄ならもう疾《とく》に手を出している時分であった。自分は俯向《うつむ》きながら、今に兄の拳《こぶし》が帽子の上へ飛んで来るか、または彼の平手《ひらて》が頬のあたりでピシャリと鳴るかと思って、じっと癇癪玉《かんしゃくだま
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