「その人の書翰《しょかん》の一つのうちに彼はこんな事を云っている。――自分は女の容貌《ようぼう》に満足する人を見ると羨《うらや》ましい。女の肉に満足する人を見ても羨ましい。自分はどうあっても女の霊《れい》というか魂《たましい》というか、いわゆるスピリットを攫《つか》まなければ満足ができない。それだからどうしても自分には恋愛事件が起らない」
「メレジスって男は生涯《しょうがい》独身で暮したんですかね」
「そんな事は知らない。またそんな事はどうでも構わないじゃないか。しかし二郎、おれが霊も魂もいわゆるスピリットも攫まない女と結婚している事だけはたしかだ」

        二十一

 兄の顔には苦悶《くもん》の表情がありありと見えた。いろいろな点において兄を尊敬する事を忘れなかった自分は、この時胸の奥でほとんど恐怖に近い不安を感ぜずにはいられなかった。
「兄さん」と自分はわざと落ちつき払って云った。
「何だ」
 自分はこの答を聞くと同時に立った。そうして、ことさらに兄の腰をかけている前を、先刻《さっき》兄がやったと同じように、しかし全く別の意味で、右左へと二三度横切った。兄は自分にはまるで無頓着《むとんじゃく》に見えた。両手の指を、少し長くなった髪の間に、櫛《くし》の歯のように深く差し込んで下を向いていた。彼は大変|色沢《いろつや》の好い髪の所有者であった。自分は彼の前を横切るたびに、その漆黒《しっこく》の髪とその間から見える関節の細い、華奢《きゃしゃ》な指に眼を惹《ひ》かれた。その指は平生から自分の眼には彼の神経質を代表するごとく優しくかつ骨張って映った。
「兄さん」と自分が再び呼びかけた時、彼はようやく重そうに頭を上げた。
「兄さんに対して僕がこんな事をいうとはなはだ失礼かも知れませんがね。他《ひと》の心なんて、いくら学問をしたって、研究をしたって、解りっこないだろうと僕は思うんです。兄さんは僕よりも偉い学者だから固《もと》よりそこに気がついていらっしゃるでしょうけれども、いくら親しい親子だって兄弟だって、心と心はただ通じているような気持がするだけで、実際向うとこっちとは身体《からだ》が離れている通り心も離れているんだからしようがないじゃありませんか」
「他の心は外から研究はできる。けれどもその心になって見る事はできない。そのくらいの事ならおれだって心得ているつもりだ」
 兄は吐き出すように、また懶《ものう》そうにこう云った。自分はすぐその後《あと》に跟《つ》いた。
「それを超越するのが宗教なんじゃありますまいか。僕なんぞは馬鹿だから仕方がないが、兄さんは何でもよく考える性質《たち》だから……」
「考えるだけで誰が宗教心に近づける。宗教は考えるものじゃない、信じるものだ」
 兄はさも忌々《いまいま》しそうにこう云い放った。そうしておいて、「ああおれはどうしても信じられない。どうしても信じられない。ただ考えて、考えて、考えるだけだ。二郎、どうかおれを信じられるようにしてくれ」と云った。
 兄の言葉は立派な教育を受けた人の言葉であった。しかし彼の態度はほとんど十八九の子供に近かった。自分はかかる兄を自分の前に見るのが悲しかった。その時の彼はほとんど砂の中で狂う泥鰌《どじょう》のようであった。
 いずれの点においても自分より立ち勝った兄が、こんな態度を自分に示したのはこの時が始めてであった。自分はそれを悲しく思うと同時に、この傾向で彼がだんだん進んで行ったならあるいは遠からず彼の精神に異状を呈するようになりはしまいかと懸念《けねん》して、それが急に恐ろしくなった。
「兄さん、この事については僕も実はとうから考えていたんです……」
「いや御前の考えなんか聞こうと思っていやしない。今日御前をここへ連れて来たのは少し御前に頼みがあるからだ。どうぞ聞いてくれ」
「何ですか」
 事はだんだん面倒になって来そうであった。けれども兄は容易にその頼みというのを打ち明けなかった。ところへ我々と同じ遊覧人めいた男女《なんにょ》が三四人石段の下に現れた。彼らはてんでに下駄《げた》を草履《ぞうり》と脱ぎ易《か》えて、高い石段をこっちへ登って来た。兄はその人影を見るや否や急に立上がった。「二郎帰ろう」と云いながら石段を下《くだ》りかけた。自分もすぐその後に随《したが》った。

        二十二

 兄と自分はまた元の路へ引返した。朝来た時も腹や頭の具合が変であったが、帰りは日盛《ひざかり》になったせいかなお苦しかった。あいにく二人共時計を忘れたので何時《なんじ》だかちょっと分り兼ねた。
「もう何時だろう」と兄が聞いた。
「そうですね」と自分はぎらぎらする太陽を仰ぎ見た。「まだ午《ひる》にはならないでしょう」
 二人は元の路を逆に歩いているつもりであっ
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