そこにあった石に腰をおろした。その石の後は篠竹《しのだけ》が一面に生えて遥《はるか》の下まで石垣の縁《ふち》を隠すように茂っていた。その中から大きな椿《つばき》が所々に白茶けた幹を現すのがことに目立って見えた。
「なるほどここは静《しずか》だ。ここならゆっくり話ができそうだ」と兄は四方《あたり》を見廻した。
十八
「二郎少し御前に話があるがね」と兄が云った。
「何です」
兄はしばらく逡巡《しゅんじゅん》して口を開かなかった。自分はまたそれを聞くのが厭《いや》さに、催促もしなかった。
「ここは涼しいですね」と云った。
「ああ涼しい」と兄も答えた。
実際そこは日影に遠いせいか涼しい風の通う高みであった。自分は三四分手帛を動かした後《のち》、急に肌を入れた。山門の裏には物寂《ものさ》びた小さい拝殿があった。よほど古い建物と見えて、軒に彫つけた獅子の頭などは絵の具が半分|剥《は》げかかっていた。
自分は立って山門を潜《くぐ》って拝殿の方へ行った。
「兄さんこっちの方がまだ涼しい。こっちへいらっしゃい」
兄は答えもしなかった。自分はそれを機《しお》に拝殿の前面を左右に逍遥《しょうよう》した。そうして暑い日を遮《さえぎ》る高い常磐木《ときわぎ》を見ていた。ところへ兄が不平な顔をして自分に近づいて来た。
「おい少し話しがあるんだと云ったじゃないか」
自分は仕方なしに拝殿の段々に腰をかけた。兄も自分に並んで腰をかけた。
「何ですか」
「実は直《なお》の事だがね」と兄ははなはだ云い悪《にく》いところをやっと云い切ったという風に見えた。自分は「直」という言葉を聞くや否や冷《ひや》りとした。兄夫婦の間柄は母が自分に訴えた通り、自分にもたいていは呑《の》み込めていた。そうして母に約束したごとく、自分はいつか折を見て、嫂《あによめ》に腹の中をとっくり聴糺《ききただ》した上、こっちからその知識をもって、積極的に兄に向《むか》おうと思っていた。それを自分がやらないうちに、もし兄から先《せん》を越されでもすると困るので、自分はひそかにそこを心配していた。実を云うと、今朝《けさ》兄から「二郎、二人で行こう、二人ぎりで」と云われた時、自分はあるいはこの問題が出るのではあるまいかと掛念《けねん》して自《おのず》と厭《いや》になったのである。
「嫂《ねえ》さんがどうかしたんですか」と自分はやむを得ず兄に聞き返した。
「直は御前に惚《ほ》れてるんじゃないか」
兄の言葉は突然であった。かつ普通兄のもっている品格にあたいしなかった。
「どうして」
「どうしてと聞かれると困る。それから失礼だと怒られてはなお困る。何も文《ふみ》を拾ったとか、接吻《せっぷん》したところを見たとか云う実証から来た話ではないんだから。本当いうと表向《おもてむき》こんな愚劣な問を、いやしくも夫たるおれが、他人に向ってかけられた訳のものではない。ないが相手が御前だからおれもおれの体面を構わずに、聞き悪いところを我慢して聞くんだ。だから云ってくれ」
「だって嫂さんですぜ相手は。夫のある婦人、ことに現在の嫂ですぜ」
自分はこう答えた。そうしてこう答えるよりほかに何と云う言葉も出なかった。
「それは表面の形式から云えば誰もそう答えなければならない。御前も普通の人間だからそう答えるのが至当だろう。おれもその一言《いちごん》を聞けばただ恥じ入るよりほかに仕方がない。けれども二郎御前は幸いに正直な御父さんの遺伝を受けている。それに近頃の、何事も隠さないという主義を最高のものとして信じているから聞くのだ。形式上の答えはおれにも聞かない先から解っているが、ただ聞きたいのは、もっと奥の奥の底にある御前の感じだ。その本当のところをどうぞ聞かしてくれ」
十九
「そんな腹の奥の奥底にある感じなんて僕に有るはずがないじゃありませんか」
こう答えた時、自分は兄の顔を見ないで、山門の屋根を眺めていた。兄の言葉はしばらく自分の耳に聞こえなかった。するとそれが一種の癇高《かんだか》い、さも昂奮《こうふん》を抑《おさ》えたような調子になって響いて来た。
「おい二郎何だってそんな軽薄な挨拶《あいさつ》をする。おれと御前は兄弟じゃないか」
自分は驚いて兄の顔を見た。兄の顔は常磐木《ときわぎ》の影で見るせいかやや蒼味《あおみ》を帯びていた。
「兄弟ですとも。僕はあなたの本当の弟《おとと》です。だから本当の事を御答えしたつもりです。今云ったのはけっして空々しい挨拶でも何でもありません。真底そうだからそういうのです」
兄の神経の鋭敏なごとく自分は熱しやすい性急《せっかち》であった。平生の自分ならあるいはこんな返事は出なかったかも知れない。兄はその時簡単な一句を射た。
「きっと」
「ええき
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