あった。自分の話相手がなくなってこっちの室《へや》が急にひっそりして見ると、兄の室はなお森閑と自分の耳を澄ました。
自分は眼を閉じたままじっとしていた。しかしいつまで経《た》っても寝つかれなかった。しまいには静さに祟《たた》られたようなこの暑い苦しみを痛切に感じ出した。それで母の眠《ねむり》を妨《さまた》げないようにそっと蒲団《ふとん》の上に起き直った。それから蚊帳《かや》の裾《すそ》を捲《まく》って縁側《えんがわ》へ出る気で、なるべく音のしないように障子《しょうじ》をすうと開《あ》けにかかった。すると今まで寝入っていたとばかり思った母が突然「二郎どこへ行くんだい」と聞いた。
「あんまり寝苦しいから、縁側へ出て少し涼もうと思います」
「そうかい」
母の声は明晰《めいせき》で落ちついていた。自分はその調子で、彼女がまんじりともせずに今まで起きていた事を知った。
「御母さんも、まだ御休みにならないんですか」
「ええ寝床の変ったせいか何だか勝手が違ってね」
自分は貸浴衣《かしゆかた》の腰に三尺帯を一重《ひとえ》廻しただけで、懐《ふところ》へ敷島《しきしま》の袋と燐寸《マッチ》を入れて縁側へ出た。縁側には白いカヴァーのかかった椅子が二脚ほど出ていた。自分はその一脚を引き寄せて腰をかけた。
「あまりがたがた云わして、兄さんの邪魔になるといけないよ」
母からこう注意された自分は、煙草《たばこ》を吹かしながら黙って、夢のような眼前《めのまえ》の景色を眺めていた。景色は夜と共に無論ぼんやりしていた。月のない晩なので、ことさら暗いものが蔓《はびこ》り過ぎた。そのうちに昼間見た土手の松並木だけが一際《ひときわ》黒ずんで左右に長い帯を引き渡していた。その下に浪《なみ》の砕けた白い泡が夜の中に絶間なく動揺するのが、比較的|刺戟強《しげきづよ》く見えた。
「もう好い加減に御這入《おはい》りよ。風邪《かぜ》でも引くといけないから」
母は障子《しょうじ》の内からこう云って注意した。自分は椅子に倚《よ》りながら、母に夜の景色を見せようと思ってちょっと勧めたが、彼女は応じなかった。自分は素直にまた蚊帳の中に這入って、枕の上に頭を着けた。
自分が蚊帳を出たり這入ったりした間、兄夫婦の室は森《しん》として元のごとく静かであった。自分が再び床に着いた後《あと》も依然として同じ沈黙に鎖《とざ》されていた。ただ防波堤に当って砕ける波の音のみが、どどんどどんといつまでも響いた。
十六
朝起きて膳《ぜん》に向った時見ると、四人《よつたり》はことごとく寝足らない顔をしていた。そうして四人ともその寝足らない雲を膳の上に打ちひろげてわざと会話を陰気にしているらしかった。自分も変に窮屈だった。
「昨夕《ゆうべ》食った鯛《たい》の焙烙蒸《ほうろくむし》にあてられたらしい」と云って、自分は不味《まず》そうな顔をして席を立った。手摺《てすり》の所へ来て、隣に見える東洋第一エレヴェーターと云う看板を眺めていた。この昇降器は普通のように、家の下層から上層に通じているのとは違って、地面から岩山の頂《いただき》まで物数奇《ものずき》な人間を引き上げる仕掛であった。所にも似ず無風流《ぶふうりゅう》な装置には違ないが、浅草にもまだない新しさが、昨日《きのう》から自分の注意を惹《ひ》いていた。
はたして早起の客が二人三人ぽつぽつもう乗り始めた。早く食事を終えた兄はいつの間にか、自分の後《うしろ》へ来て、小楊枝《こようじ》を使いながら、上《のぼ》ったり下《お》りたりする鉄の箱を自分と同じように眺めていた。
「二郎、今朝《けさ》ちょっとあの昇降器へ乗って見ようじゃないか」と兄が突然云った。
自分は兄にしてはちと子供らしい事を云うと思って、ひょっと後《うしろ》を顧《かえり》みた。
「何だか面白そうじゃないか」と兄は柄《がら》にもない稚気《ちき》を言葉に現した。自分は昇降器へ乗るのは好いが、ある目的地へ行けるかどうかそれが危《あや》しかった。
「どこへ行けるんでしょう」
「どこだって構わない。さあ行こう」
自分は母と嫂《あによめ》も無論いっしょに連れて行くつもりで、「さあさあ」と大きな声で呼び掛けた。すると兄は急に自分を留めた。
「二人で行こう。二人ぎりで」と云った。
そこへ母と嫂が「どこへ行くの」と云って顔を出した。
「何ちょっとあのエレヴェーターへ乗って見るんです。二郎といっしょに。女には剣呑《けんのん》だから、御母さんや直《なお》は止した方が好いでしょう。僕らがまあ乗って、試《ため》して見ますから」
母は虚空《こくう》に昇って行く鉄の箱を見ながら気味の悪そうな顔をした。
「直お前どうするい」
母がこう聞いた時、嫂は例の通り淋《さむ》しい靨《えくぼ》を寄せて、
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