》めの好い座敷が塞《ふさ》がっているとかで、自分達は直《ただち》に俥《くるま》を命じて浜手の角を曲った。そうして海を真前《まんまえ》に控えた高い三階の上層の一室に入った。
そこは南と西の開《あ》いた広い座敷だったが、普請《ふしん》は気の利《き》いた東京の下宿屋ぐらいなもので、品位からいうと大阪の旅館とはてんで比べ物にならなかった。時々|大一座《おおいちざ》でもあった時に使う二階はぶっ通しの大広間で、伽藍堂《がらんどう》のような真中《まんなか》に立って、波を打った安畳を眺《なが》めると、何となく殺風景な感が起った。
兄はその大広間に仮の仕切として立ててあった六枚折の屏風《びょうぶ》を黙って見ていた。彼はこういうものに対して、父の薫陶《くんとう》から来た一種の鑑賞力をもっていた。その屏風には妙にべろべろした葉の竹が巧《たくみ》に描《えが》かれていた。兄は突然|後《うしろ》を向いて「おい二郎」と云った。
その時兄と自分は下の風呂に行くつもりで二人ながら手拭《てぬぐい》をさげていた。そうして自分は彼の二間ばかり後《うしろ》に立って、屏風の竹を眺める彼をまた眺めていた。自分は兄がこの屏風の画《え》について、何かまた批評を加えるに違いないと思った。
「何です」と答えた。
「先刻《さっき》汽車の中で話しが出た、あの三沢の事だね。お前はどう思う」
兄の質問は実際自分に取って意外であった。彼はなぜその話しを今まで自分に聞かせなかったと汽車の中で問われた時、すでに苦《にが》い顔をして必要がないからだと答えたばかりであった。
「例の接吻《キッス》の話ですか」と自分は聞き返した。
「いえ接吻じゃない。その女が三沢の出る後《あと》を慕って、早く帰って来てちょうだいと必ず云ったという方の話さ」
「僕には両方共面白いが、接吻の方が何だかより多く純粋でかつ美しい気がしますね」
この時自分達は二階の梯子段《はしごだん》を半分ほど降りていた。兄はその中途でぴたりと留《とま》った。
「そりゃ詩的に云うのだろう。詩を見る眼で云ったら、両方共等しく面白いだろう。けれどもおれの云うのはそうじゃない。もっと実際問題にしての話だ」
十二
自分には兄の意味がよく解らなかった。黙って梯子段の下まで降りた。兄も仕方なしに自分の後《あと》に跟《つ》いて来た。風呂場の入口で立ち留った自分は、ふり返って兄に聞いた。
「実際問題と云うと、どういう事になるんですか。ちょっと僕には解らないんですが」
兄は焦急《じれっ》たそうに説明した。
「つまりその女がさ、三沢の想像する通り本当にあの男を思っていたか、または先の夫に対して云いたかった事を、我慢して云わずにいたので、精神病の結果ふらふらと口にし始めたのか、どっちだと思うと云うんだ」
自分もこの問題は始めその話を聞いた時、少し考えて見た。けれどもどっちがどうだかとうてい分るべきはずの者でないと諦《あきら》めて、それなり放ってしまった。それで自分は兄の質問に対してこれというほどの意見も持っていなかった。
「僕には解らんです」
「そうか」
兄はこう云いながら、やっぱり風呂に這入《はい》ろうともせず、そのまま立っていた。自分も仕方なしに裸になるのを控えていた。風呂は思ったより小さくかつ多少古びていた。自分はまず薄暗い風呂を覗《のぞ》き込んで、また兄に向った。
「兄さんには何か意見が有るんですか」
「おれはどうしてもその女が三沢に気があったのだとしか思われんがね」
「なぜですか」
「なぜでもおれはそう解釈するんだ」
二人はその話の結末をつけずに湯に入った。湯から上って婦人|連《れん》と入代った時、室《へや》には西日がいっぱい射《さ》して、海の上は溶けた鉄のように熱く輝いた。二人は日を避けて次の室に這入った。そうしてそこで相対して坐った時、先刻《さっき》の問題がまた兄の口から話頭に上《のぼ》った。
「おれはどうしてもこう思うんだがね……」
「ええ」と自分はただおとなしく聞いていた。
「人間は普通の場合には世間の手前とか義理とかで、いくら云いたくっても云えない事がたくさんあるだろう」
「それはたくさんあります」
「けれどもそれが精神病になると――云うとすべての精神病を含めて云うようで、医者から笑われるかも知れないが、――しかし精神病になったら、大変気が楽《らく》になるだろうじゃないか」
「そう云う種類の患者もあるでしょう」
「ところでさ、もしその女がはたしてそういう種類の精神病患者だとすると、すべて世間並《せけんなみ》の責任はその女の頭の中から消えて無くなってしまうに違なかろう。消えて無くなれば、胸に浮かんだ事なら何でも構わず露骨に云えるだろう。そうすると、その女の三沢に云った言葉は、普通我々が口にする好い加減な挨拶
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