ー」に傍点]で持ち切っていた。いろいろな声がこんな事を云う。――
「あのジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]はどこから出たんだろう」
「どこから出たって御《お》ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]だ」
「ことによると黒市組《くろいちぐみ》かも知れねえ。見当《けんとう》がそうだ」
「全体《ぜんてえ》ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]になったらどこへ行くもんだろう」
「御寺よ。きまってらあ」
「馬鹿にするねえ。御寺の先を聞いてるんだあな」
「そうよ、そりゃ寺限《てらぎり》で留《とま》りっこねえ訳だ。どっかへ行くに違《ちげ》えねえ」
「だからよ。その行く先はどんな所《とこ》だろうてえんだ。やっぱしこんな所《ところ》かしら」
「そりゃ、人間の魂の行く所だもの、大抵は似た所に違えねえ」
「己《おれ》もそう思ってる。行くとなりゃ、どうもほかへ行く訳がねえからな」
「いくら地獄だって極楽《ごくらく》だって、やっぱり飯は食うんだろう」
「女もいるだろうか」
「女のいねえ国が世界にあるもんか」
ざっと、こんな談話だから、聞いているとめちゃめちゃである。それで始めのうちは冗談《じょうだん》だと思った。笑っても差支《さしつかえ》ないものと心得て、口の端《はた》をむずつかせながら、ちょっと様子を見渡したくらいであった。ところが笑いたいのは自分だけで、囲炉裏を取り捲《ま》いている顔はいずれも、彫りつけたように堅くなっている。彼らは真剣の真面目で未来と云う大問題を論じていたんである。実に嘘《うそ》としか受け取れないほどの熱心が、各々の眉《まゆ》の間に見えた。自分はこの時、この有様を一瞥《いちべつ》して、さっきの笑いたかった念慮をたちまちのうちに一変した。こんな向う見ずの無鉄砲な人間が――カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げて、シキ[#「シキ」に傍点]の中へ下りれば、もう二度と日の目を見ない料簡《りょうけん》でいる人間が――人間の器械で、器械の獣《けだもの》とも云うべきこの獰猛組《どうもうぐみ》が、かほどに未来の事を気にしていようとは、まことに予想外であった。して見ると、世間には、未来の保証をしてくれる宗教というものが入用《いりよう》のはずだ。実際自分が眼を上げて、囲炉裏《いろり》のぐるりに胡坐《あぐら》をかいて並んだ連中を見渡した時には、遠慮に畏縮《いしゅく》が手伝って、七分方《しちぶがた》でき上った笑いを急に崩《くず》したと云う自覚は無論なかった。ただ寄席《よせ》を聞いてるつもりで眼を開けて見たら鼻の先に毘沙門様《びしゃもんさま》が大勢いて、これはと威儀を正さなければならない気持であった。一口に云うと、自分はこの時始めて、真面目な宗教心の種を見て、半獣半人の前にも厳格の念を起したんだろう。その癖自分はいまだに宗教心と云うものを持っていない。
この時さっきの病人が、向うの隅でううんと唸《うな》り出した。その唸り声には無論特別の意味はない。単に普通の病人の唸り声に過ぎんのだが、ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]の未来に屈託している連中には、一種のあやしい響のように思われたんだろう。みんな眼と眼を見合した。
「金公《きんこう》苦しいのか」
と一人が大きな声で聞いた。病人は、ただ、
「ううん」
と云う。唸ってるのか、返事をしているのか判然しない。するとまた一人の坑夫が、
「そんなに嚊《かかあ》の事ばかり気にするなよ。どうせ取られちまったんだ。今更《いまさら》唸ったってどうなるもんか。質に入れた嚊だ。受出さなけりゃ流れるなあ当り前だ」
と、やっぱり囲炉裏の傍《そば》へ坐ったまま、大きな声で慰《なぐさ》めている。慰めてるんだか、悪口《あくたい》を吐《つ》いているんだか疑わしいくらいである。坑夫から云うと、どっちも同じ事なんだろう。病人はただううんと挨拶《あいさつ》――挨拶にもならない声を微《かす》かに出すばかりであった。そこで大勢は懸合《かけあい》にならない慰藉《いしゃ》をやめて、囲炉裏の周囲《まわり》だけで舌《した》の用を弁じていた。しかし話題はまだ金さんを離れない。
「なあに、病気せえしなけりゃ、金公だって嚊を取られずに済むんだあな。元を云やあ、やっぱり自分が悪いからよ」
と一人が、金さんの病気をさも罪悪のように評するや否や、
「全くだ。自分が病気をして金を借りて、その金が返せねえから、嚊を抵当に取られちまったんだから、正直のところ文句《もんく》の附けようがねえ」
と賛成したものがある。
「若干《いくら》で抵当に入れたんだ」
と聞くと、向側《むこうがわ》から、
「五両だ」
と誰だか、簡潔に教えた。
「それで市《いち》の野郎が長屋へ下がって、金しゅうと入れ代った訳か。ハハハハ」
自分は囲炉裏の側《そば》に坐ってるのが苦痛であった。背中の方がぞくぞくするほど寒いのに、腋《わき》の下から汗が出る。
「金しゅうも早く癒《なお》って、嚊《かかあ》を受け出したら好かろう」
「また、市《いち》と入れ代りか。世話あねえ」
「それよりか、うんと稼《かせ》いで、もっと価《ね》に踏める抵当でも取った方が、気が利《き》いてらあ」
「違《ちげえ》ねえ」
と一人が云い出すのを相図に、みんなどっと笑った。自分はこの笑の中に包まれながら、どうしても笑い切れずに下を向いてしまった。見ると膝《ひざ》を並べて畏《かしこ》まっていた。馬鹿らしいと気がついて、胡坐《あぐら》に組み直して見た。しかし腹の中はけっして胡坐をかくほど悠長《ゆうちょう》ではなかった。
その内だんだん日暮に近くなって来る。時間が移るばかりじゃない、天気の具合と、山が囲んでるせいで早く暗くなる。黙って聞いていると、雨垂《あまだれ》の音もしないようだから、ことによると、雨はもう歇《や》んだのかも知れない。しかしこの暗さでは、やっぱり降ってると云う方が当るだろう。窓は固《もとよ》り締め切ってある。戸外《そと》の模様は分りようがない。しかし暗くって湿《しめ》ッぽい空気が障子《しょうじ》の紙を透《こ》して、一面に囲炉裏《いろり》の周囲《まわり》を襲《おそ》って来た。並んでいる十四五人の顔がしだいしだいに漠然《ぼんやり》する。同時に囲炉裏の真中《まんなか》に山のようにくべた炭の色が、ほてり返って、少しずつ赤く浮き出すように思われた。まるで、自分は坑《あな》の底へ滅入込《めいりこ》んで行く、火はこれに反して坑からだんだん競《せ》り上がって来る、――ざっと、そんな気分がした。時にぱっと部屋中が明るくなった。見ると電気灯が点《つ》いた。
「飯でも食うべえ」
と一人が云うと、みんな忘れものを思い出したように、
「飯を食って、また交替か」
「今日は少し寒いぞ」
「雨はまだ降ってるのか」
「どうだか、表へ出て仰向《あおむ》いて見な」
などと、口々に罵《ののし》りながら、立って、階下段《はしごだん》を下りて行った。自分は広い部屋にたった一人残された。自分のほかにいるものは病人の金《きん》さんばかりである。この金さんがやっぱり微《かすか》な声を出して唸《うな》ってるようだ。自分は囲炉裏の前に手を翳《かざ》して胡坐を組みながら、横を向いて、金さんの方を見た。頭は出ていない。足も引っ込ましている。金さんの身体《からだ》は一枚の布団《ふとん》の中で、小さく平ったくなっている。気の毒なほど小さく平ったく見えた。その内《うち》唸《うな》り声《ごえ》も、どうにか、こうにかやんだようだから、また顔の向《むき》を易《か》えて、囲炉裏の中を見詰めた。ところがなんだか金さんが気に掛かってたまらないから、また横を向いた。すると金さんはやっぱり一枚の布団の中で、小さく平ったくなっている。そうして、森《しん》としている。生きてるのか、死んでるのか、ただ森としている。唸られるのも、あんまり気味の好いもんじゃないが、こう静かにしていられるとなお心配になる。心配の極《きょく》は怖《こわ》くなって、ちょっと立ち懸けたが、まあ大丈夫だろう、人間はそう急に死ぬもんじゃないと、度胸を据《す》えてまた尻を落ちつけた。
ところへ二三人、下からどやどやと階下段《はしごだん》を上がって来た。もう飯を済ましたんだろうか、それにしては非常に早いがと、心持上がり段の方を眺《なが》めていると、思も寄らないものが、現れた。――黒か紺《こん》か色の判然《はっきり》しない筒服《つつっぽう》を着ている。足は職人の穿《は》くような細い股引《ももひき》で、色はやはり同じ紺である。それでカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を提《さ》げている。のみならず二人《ふたあり》が二人とも泥だらけになって、濡《ぬ》れてる。そうして、口を利《き》かない。突っ立ったまま自分の方をぎろりと見た。まるで強盗としきゃあ思えない。やがて、カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を抛《ほう》り出すと、釦《ボタン》を外《はず》して、筒袖《つつっぽう》を脱いだ。股引も脱いだ。壁に掛けてある広袖《ひろそで》を、めりやすの上から着て、尻の先に三尺帯をぐるりと回しながら、やっぱり無言のまま、二人してずしりずしりと降りて行った。するとまた上がって来た。今度《こんだ》のも濡れている。泥だらけである。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]を抛り出す。着物を着換える。ずしんずしんと降りて行く。とまた上がって来る。こう云う風に入代り、入代りして、何でもよほど来た。いずれも底の方から眼球《めだま》を光らして、一遍だけはきっと自分を見た。中には、
「手前《てめえ》は新前《しんめえ》だな」
と云ったものもある。自分はただ、
「ええ」
と答えて置いた。幸《さいわ》い今度はさっきのようにむやみには冷やかされずに、まあ無難《ぶなん》に済んだ。上がって来るものも、来るものも、みんな急いで降りて行くんで、調戯《からか》う暇がなかったんだろう。その代り一人に一度ずつは必ず睨《にら》まれた。そうこうしている内に、上がって来るものがようやく絶えたから、自分はようやく寛容《くつろ》いだ思いをして、囲炉裏《いろり》の炭の赤くなったのを見詰めて、いろいろ考え出した。もちろん纏《まと》まりようのない、かつ考えれば考えるほど馬鹿になる考えだが、火を見詰ていると、炭の中にそう云う妄想《もうぞう》がちらちらちらちら燃えてくるんだから仕方がない。とうとう自分の魂が赤い炭の中へ抜出して、火気《かっき》に煽《あお》られながら、むやみに踊をおどってるような変な心持になった時に、突然、
「草臥《くたび》れたろうから、もう御休みなさい」
と云われた。
見ると、さっきの婆さんが、立っている。やっぱり襷掛《たすきがけ》のままである。いつの間《ま》に上がって来たものか、ちっとも気がつかなかった。自分の魂が遠慮なく火の中を馳《か》け廻って、艶子《つやこ》さんになったり、澄江《すみえ》さんになったり、親爺《おやじ》になったり、金さんになったり、――被布《ひふ》やら、廂髪《ひさしがみ》やら、赤毛布《あかげっと》やら、唸《うな》り声《ごえ》やら、揚饅頭《あげまんじゅう》やら、華厳《けごん》の滝やら――幾多無数の幻影《まぼろし》が、囲炉裏の中に躍《おど》り狂って、立ち騰《のぼ》る火の気の裏《うち》に追いつ追われつ、日向《ひなた》に浮かぶ塵《ちり》と思われるまで夥《おびただ》しく出て来た最中に、はっと気がついたんだから、眼の前にいる婆さんが、不思議なくらい変であった。しかし寝ろと云う注意だけは明かに耳に聞えたに違ないから、自分はただ、
「ええ」
と答えた。すると婆さんは後《うし》ろの戸棚を指《さ》して、
「布団《ふとん》は、あすこに這入《はい》ってるから、独《ひとり》で出して御掛けなさい。一枚三銭ずつだ。寒いから二枚はいるでしょう」
と聞くから、また
「ええ」
と答えたら、婆さんは、それ限《ぎり》何にも云わずに、降りて行った。これで、自分は寝てもいいと云う許可を得たから、正式に横になっても剣突《けんつく》を食う恐れはあるまいと思って、婆さんの指図通《さしずどお》り戸棚を明けて見ると、あった。布団がたくさんあった
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