坑夫
夏目漱石

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)いくら歩行《あるい》たって

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)無論|端折《はしお》ってある。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+禺」、第3水準1−15−9]
−−

 さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生《は》えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩行《あるい》たって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨《にら》めっ子《こ》をしている方が増しだ。
 東京を立ったのは昨夕《ゆうべ》の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥《くたび》れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇《くらやみ》の神楽堂《かぐらどう》へ上《あが》ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚《さ》めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押《ひらお》しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精《せい》がない。
 足はだいぶ重くなっている。膨《ふく》ら脛《はぎ》に小さい鉄の才槌《さいづち》を縛《しば》り附けたように足掻《あがき》に骨が折れる。袷《あわせ》の尻は無論|端折《はしお》ってある。その上|洋袴下《ズボンした》さえ穿《は》いていないのだから不断なら競走でもできる。が、こう松ばかりじゃ所詮《しょせん》敵《かな》わない。
 掛茶屋がある。葭簀《よしず》の影から見ると粘土《ねばつち》のへっつい[#「へっつい」に傍点]に、錆《さび》た茶釜《ちゃがま》が掛かっている。床几《しょうぎ》が二尺ばかり往来へ食《は》み出した上から、二三足|草鞋《わらじ》がぶら下がって、袢天《はんてん》だか、どてら[#「どてら」に傍点]だか分らない着物を着た男が背中をこちらへ向けて腰を掛けている。
 休もうかな、廃《よ》そうかなと、通り掛りに横目で覗《のぞ》き込んで見たら、例の袢天とどてら[#「どてら」に傍点]の中《ちゅう》を行く男が突然こっちを向いた。煙草《たばこ》の脂《やに》で黒くなった歯を、厚い唇《くちびる》の間から出して笑っている。これはと少し気味が悪くなり掛ける途端《とたん》に、向うの顔は急に真面目《まじめ》になった。今まで茶店の婆さんとさる面白い話をしていて、何の気もつかずに、ついそのままの顔を往来へ向けた時に、ふと自分の面相に出《で》っ喰《くわ》したものと見える。ともかく向うが真面目になったのでようやく安心した。安心したと思う間《ま》もなくまた気味が悪くなった。男は真面目になった顔を真面目な場所に据《す》えたまま、白眼《しろめ》の運動が気に掛かるほどの勢いで自分の口から鼻、鼻から額《ひたい》とじりじり頭の上へ登って行く。鳥打帽の廂《ひさし》を跨《また》いで、脳天まで届いたと思う頃また白眼がじりじり下へ降《さが》って来た。今度は顔を素通りにして胸から臍《へそ》のあたりまで来るとちょっと留まった。臍の所には蟇口《がまぐち》がある。三十二銭|這入《はい》っている。白い眼は久留米絣《くるめがすり》の上からこの蟇口を覘《ねら》ったまま、木綿《もめん》の兵児帯《へこおび》を乗り越してやっと股倉《またぐら》へ出た。股倉から下にあるものは空脛《からすね》ばかりだ。いくら見たって、見られるようなものは食《く》ッ附《つ》いちゃいない。ただ不断より少々重たくなっている。白い眼はその重たくなっている所を、わざっと、じりじり見て、とうとう親指の痕《あと》が黒くついた俎下駄《まないたげた》の台まで降《くだ》って行った。
 こう書くと、何だか、長く一所《ひとところ》に立っていて、さあ御覧下さいと云わないばかりに振舞ったように思われるがそうじゃない。実は白い眼の運動が始まるや否《いな》や急に茶店へ休むのが厭《いや》になったから、すたすた歩き出したつもりである。にもかかわらず、このつもりが少々|覚束《おぼつか》なかったと見えて、自分が親指にまむしを拵《こしら》えて、俎下駄を捩《ねじ》る間際《まぎわ》には、もう白い眼の運動は済んでいた。残念ながら向うは早いものである。じりじり見るんだから定めし手間が掛かるだろうと思ったら大間違い。じりじりには相違ない、どこまでも落ちついている。がそれで滅法《めっぽう》早い。茶屋の前を通り越しながら、世の中には、妙な作用を持ってる眼があるものだと思ったくらいである。それにしても、ああ緩《ゆっ》くり見られないうちに、早く向き直る工夫はなかったもんだろうか。さんざっ腹《ぱら》冷《ひや》かされて、さあ御帰り、用はないからと云う段になって、もう御免蒙《ごめんこうぶ》りますと立ち上ったようなものだ。こっちは馬鹿気《ばかげ》ている。あっちは得意である。
 歩き出してから五六間の間は変に腹が立った。しかし不愉快は五六間ですぐ消えてしまった。と思うとまた足が重くなった。――この足だもの。何しろ鉄の才槌《さいづち》を双方の足へ縛《しば》り附けて歩いてるんだから、敏活の行動は出来ないはずだ。あの白い眼にじりじりやられたのも、満更《まんざら》持前の半間《はんま》からばかり来たとも云えまい。こう思い直して見ると下らない。
 その上こんな事を気にしていられる身分じゃない。いったん飛び出したからは、もうどうあっても家《うち》へ戻る了簡《りょうけん》はない。東京にさえ居《お》り切れない身体《からだ》だ。たとい田舎《いなか》でも落ちつく気はない。休むと後《うしろ》から追っ掛けられる。昨日《きのう》までのいさくさが頭の中を切って廻った日にはどんな田舎だってやり切れない。だからただ歩くのである。けれども別段に目的《めあて》もない歩き方だから、顔の先一間四方がぼうとして何だか焼き損《そく》なった写真のように曇っている。しかもこの曇ったものが、いつ晴れると云う的《あて》もなく、ただ漠然《ばくぜん》と際限もなく行手に広がっている。いやしくも自分が生きている間は五十年でも六十年でも、いくら歩いても走《かけ》ても依然として広がっているに違いない。ああ、つまらない。歩くのはいたたまれないから歩くので、このぼんやりした前途を抜出すために歩くのではない。抜け出そうとしたって抜け出せないのは知れ切っている。
 東京を立った昨夜《ゆうべ》の九時から、こう諦《あきらめ》はつけてはいるが、さて歩き出して見ると、歩きながら気が気でない。足も重い、松が厭《あ》きるほど行列している。しかし足よりも松よりも腹の中が一番苦しい。何のために歩いているんだか分らなくって、しかも歩かなくっては一刻も生きていられないほどの苦痛は滅多《めった》にない。
 のみならず歩けば歩くほどとうてい抜ける事のできない曇った世界の中へだんだん深く潜《もぐ》り込んで行くような気がする。振り返ると日の照っている東京はもう代《よ》が違っている。手を出しても足を伸ばしても、この世では届かない。まるで娑婆《しゃば》が違う。そのくせ暖かな朗《ほがら》かな東京は、依然として眼先にありありと写っている。おういと日蔭《ひかげ》から呼びたくなるくらい明かに見える。と同時に足の向いてる先は漠々《ばくばく》たるものだ。この漠々のうちへ――命のあらん限り広がっているこの漠々のうちへ――自分はふらふら迷い込むのだから心細い。
 この曇った世界が曇ったなりはびこって、定業《じょうごう》の尽きるまで行く手を塞《ふさ》いでいてはたまらない。留まった片足を不安の念に駆《か》られて一歩前へ出すと、一歩不安の中へ踏み込んだ訳《わけ》になる。不安に追い懸けられ、不安に引っ張られて、やむを得ず動いては、いくら歩いてもいくら歩いても埓《らち》が明くはずがない。生涯《しょうがい》片づかない不安の中を歩いて行くんだ。とてもの事に曇ったものが、いっそだんだん暗くなってくれればいい。暗くなった所をまた暗い方へと踏み出して行ったら、遠からず世界が闇《やみ》になって、自分の眼で自分の身体が見えなくなるだろう。そうなれば気楽なものだ。
 意地の悪い事に自分の行く路は明るくもなってくれず、と云って暗くもなってくれない。どこまでも半陰半晴の姿で、どこまでも片づかぬ不安が立て罩《こ》めている。これでは生甲斐《いきがい》がない、さればと云って死に切れない。何でも人のいない所へ行って、たった一人で住んでいたい。それが出来なければいっその事……
 不思議な事にいっその事と観念して見たが別にどきんともしなかった。今まで東京にいた時分いっその事と無分別を起しかけた事もたびたびあるが、そのたびたびにどきんとしない事はなかった。後《あと》からぞっ[#「ぞっ」に傍点]として、まあ善かったと思わない事もなかった。ところが今度は天からどきん[#「どきん」に傍点]ともぞっ[#「ぞっ」に傍点]ともしない。どきん[#「どきん」に傍点]とでもぞっ[#「ぞっ」に傍点]とでも勝手にするが善《い》いと云うくらいに、不安の念が胸一杯に広がっていたんだろう。その上いっその事を断行するのが今が今ではないと云う安心がどこかにあるらしい。明日《あした》になるか明後日《あさって》になるか、ことに由《よ》ったら一週間も掛るか、まかり間違えば無期限に延ばしても差支《さしつかえ》ないと高《たか》を括《くく》っていたせいかも知れない。華厳《けごん》の瀑《たき》にしても浅間《あさま》の噴火口《ふんかこう》にしても道程《みちのり》はまだだいぶあるくらいは知らぬ間《ま》に感じていたんだろう。行き着いていよいよとならなければ誰がどきん[#「どきん」に傍点]とするものじゃない。したがっていっその事を断行して見ようと云う気にもなる。この一面に曇った世界が苦痛であって、この苦痛をどきん[#「どきん」に傍点]としない程度において免《まぬか》れる望があると思えば重い足も前に出し甲斐がある。まずこのくらいの決心であったらしい。しかしこれはあとから考えた心理状態の解剖である。その当時はただ暗い所へ出ればいい。何でも暗い所へ行かなければならないと、ひたすら暗い所を目的《めあて》に歩き出したばかりである。今考えると馬鹿馬鹿しいが、ある場合になると吾々は死を目的にして進むのを責《せめ》てもの慰藉《いしゃ》と心得るようになって来る。ただし目指す死は必ず遠方になければならないと云う事も事実だろうと思う。少くとも自分はそう考える。あまり近過ぎると慰藉になりかねるのは死と云う因果である。
 ただ暗い所へ行きたい、行かなくっちゃならないと思いながら、雲を攫《つか》むような料簡《りょうけん》で歩いて来ると、後《うしろ》からおいおい呼ぶものがある。どんなに魂がうろついてる時でも呼ばれて見ると性根《しょうね》があるのは不思議なものだ。自分は何の気もなく振り向いた。応ずるためと云う意識さえ持たなかったのは事実である。しかし振り向いて見て始めて気がついた。自分はさっきの茶店からまだ二十間とは離れていない。その茶店の前の往来へ、例の袢天《はんてん》とどてら[#「どてら」に傍点]の合《あい》の子《こ》が出て、脂《やに》だらけの歯をあらわに曝《さら》しながらしきりに自分を呼んでいる。
 昨夕《ゆうべ》東京を立ってから、まだ人間に口を利《き》いた事がない。人から言葉を掛けられようなどとは夢にも予期していなかった。言葉を掛けられる資格などはまるで無いものと自信し切っていた。ところへ突然呼び懸《か》けられたのだから――粗末な歯並《はなら》びだが向き出しに笑顔を見せてしきりに手招きをしているのだから、ぼんやり振り返った時の心持が、自然と判然《はっきり》すると共に、自分の足はいつの間にか、その男の方へ動き出した。
 実を云うとこの男の顔も服装《なり》も動作もあんまり気に入っちゃいない。ことにさっき白い眼でじろじろやられた時なぞは、何となく嫌悪《けん
次へ
全34ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング