れからさきの逸話に属するが、歩き出したてから、あんまりありがたい音声ではなかった。その上顔が人並にできていなかった。この男に比べると角張《かくば》った顎《あご》の、厚唇《あつくちびる》の長蔵さんなどは威風堂々たるものである。のみならず茨城の田舎を突っ走ったのみで、いまだかつて東京の地を踏んだことがない。そうして、赤い毛布《けっと》が妙に臭い。それにもかかわらず自分はこの山里で、銅山行きの味方を得たような心持ちがして嬉《うれ》しかった。自分はどうせ捨てる身だけれども、一人で捨てるより道伴《みちづれ》があって欲《ほし》い。一人で零落《おちぶ》れるのは二人で零落れるのよりも淋しいもんだ。そう明らさまに申しては失礼に当るが、自分はこの男について何一つ好いてるところはなかったけれども、ただいっしょに零落れてくれると云う点だけがありがたいのでそれがため大いに愉快を感じた。それで歩き出すや否や、少し話もし掛けて見たくらいに、近しい仲となってしまった。これから推《お》して考えると、川で死ぬ時は、きっと船頭の一人や二人を引き擦《ず》り込みたくなるに相違ない。もし死んでから地獄へでも行くような事があったなら、人のいない地獄よりも、必ず鬼のいる地獄を択《えら》ぶだろう。
 そう云う訳で、たちまち赤毛布が好きになって、約一二町も歩いて来たら、また空腹を覚え出した。よく空腹を覚えるようだが、これは前段の続きでけっして新しい空腹ではない。順序を云うと、第一に精神が稀薄になって、もっとも刻下感《こっかかん》に乏しい時に汽車を下りたんで、次に真直《まっすぐ》な往来を真直に突き当りの山まで見下《みおろ》したもんだからようやく正気づいたのは前《まえ》申した通りである。それが機縁になって、今度は食気《くいけ》がついて、それから人格を認められていない事を認識して、はなはだつまらなくなって、つまらなくなったと思ったら坑夫の同類が出来て、少しく頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》したと云うしだいになる。だに因《よ》ってまた空腹に立ち戻ったと説明したら善く呑《の》み込めるだろう。さて空腹にはなったが、最後の一膳飯屋《いちぜんめしや》はもう通り越している。宿《しゅく》はすでに尽きかかった。行く手は暗い山道である。とうてい願は叶《かな》いそうもない。それに赤毛布は今食ったばかりの腹だから、勇ましくどんどん歩く。どうも、降参しちまった。そこで思い切って、最後の手段として長蔵さんに話しかけて見た。
「長蔵さん、これからあの山を越すんですか」
「あの取附《とっつき》の山かい。あれを越しちゃ大変だ。これから左へ切れるんさ」
と云ったなりまたすたすた歩いて行く。どうも是非に及ばない。
「まだよっぽどあるんですか、僕は少し腹が減ったんだが」
と、とうとう空腹の由を自白した。すると長蔵さんは
「そうかい。芋でも食うべい」
と、云いながら、すぐさま、左側の芋屋へ飛び込んだ。よく約束したように、そこん所《とこ》に芋屋があったもんだ。これを大袈裟《おおげさ》に云えば天佑《てんゆう》である。今でもこの時の上出来に行った有様を回顧すると、おかしいばかりじゃない、嬉しい。もっとも東京の芋屋のように奇麗《きれい》じゃなかった。ほとんど名状しがたいくらいに真黒になった芋屋で、芋屋と云えば芋屋だが、芋専門じゃない。と云って芋のほかに何を売ってるんだったか、今は忘れちまった。食う方に気を取られ過ぎたせいかとも思う。
 やがて長蔵さんは両手に芋を載《の》せて、真黒な家《うち》から、のそりと出て来た。入れ物がないもんだから、両手を前へ出して、
「さあ、食った」
と云う。自分は眼前に芋を突きつけられながら、ただ
「ありがとう」
と礼を述べて、芋を眺《なが》めていた。どの芋にしようかと考えた訳ではない。そんな選択を許すような芋ではなかった。赤くって、黒くって、瘠《や》せていて、湿《しめ》っぽそうで、それで所々皮が剥《は》げて、剥げた中から緑青《ろくしょう》を吹いたような味《み》が出ている。どれにぶつかったって大同小異である。そんなら一目惨澹《いちもくさんたん》たるこの芋の光景に辟易《へきえき》して、手を出さなかったかと云うと、そうでもない。自分の胃の状況から察すると、芋中《いもちゅう》のヽヽとも云わるべきこの御薩《おさつ》を快よく賞翫《しょうがん》する食欲は十分有ったように思う。しかし「さあ、食った」と突きつけられた時は、何だかおびえ[#「おびえ」に傍点]たような気分で、おいきたと手を出し損《そく》なった。これはおおかた「さあ、食った」の云い方が悪かったんだろう。
 自分が芋を取らないのを見て、長蔵さんは、少々もどかしいと云う眼つきで、再び
「さあ」
と、例の顎《あご》で芋を指《さ》しながら、前へ出した手頸《てくび》を
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