ないと主張する。その証拠はこの通りと、どしどし反対の行為言動をして見せる。がその行為言動が、傍《はた》から見ると矛盾になっている。自分でもはてなと思う事がある。はてなと気がつかないでもとんだ苦しみを受ける場合が起ってくる。自分が前に云った少女に苦しめられたのも、元はと云えば、やっぱりこの潜伏者を自覚し得なかったからである。この正体の知れないものが、少しも自分の心を冒《おか》さない先に、劇薬でも注射して、ことごとく殺し尽す事が出来たなら、人間幾多の矛盾や、世上幾多の不幸は起らずに済んだろうに。ところがそう思うように行かんのは、人にも自分にも気の毒の至りである。
それで、自分が長蔵さんから「御前さん汽車賃を持っていなさるか」と問われた時に、自分ははっと思って、少からず狼狽《うろた》えた。三十二銭のうちで饅頭《まんじゅう》の代と茶代を引くと何にもありゃしない。汽車賃もない癖に、坑夫になろうなんて呑込顔《のみこみがお》に受合ったんだから、自分は少し図迂図迂《ずうずう》しい人間であったんだと気がついたら、急に頬辺《ほっぺた》が熱くなった。その時分の事を考えると自分ながら可愛らしい。これが今だったら、たとい電車の中で借金の催促をされようとも、ただ困るだけで、けっして赤面はしない。ましてぽん引きの長蔵さんなどに対して、神聖なる羞恥《しゅうち》の血色を見せるなんてもったいない事は、夢にもやる気遣《きづか》いはありゃしない。
自分はどう云うものか、長蔵さんに対して汽車賃はありますと答えたかった。しかし実際がないんだから嘘《うそ》を吐《つ》く訳には行かない。嘘を吐きっ放《ぱなし》にして済ませられるなら、思い切って、嘘を吐く事にしたろうが、とにかく今切符を買うと云う間際《まぎわ》で、吐けばすぐ露現《ろけん》してしまうんだから始末がわるい。と云って汽車賃はありませんと答えるのがいかにも苦痛である。どうも子供だから、しかも満更《まんざら》の子供でなくって、少し大きくなりかけた、色気のついた、煩悶《はんもん》をしている、つまらん常識があるような、ないような子供だから、なおなお不都合だった。そこで汽車賃はありますとも、ありませんとも云いにくかったもんだから、
「少しあります」
と答えた。それも響の物に応ずるごとく、停滞なく出ればよかったが、何しろもったいなくも頬辺を赤くしたあとで、はなはだ恐縮の態度で出したんだから、馬鹿である。
「少しって、御前さん、いくら持ってるい」
と長蔵さんが聞き返した。長蔵さんは自分が頬辺を赤くしても、恐縮しても、まるで頓着《とんじゃく》しない。ただいくら持ってるか聞きたい様子であった。ところがあいにく肝心《かんじん》の自分にはいくらあるか判然しない。何しろ|〆《しめ》て三十二銭のうち、饅頭《まんじゅう》を三皿食って、茶代を五銭やったんだから、残るところはたくさんじゃない。あっても無くっても同じくらいなものだ。
「ほんのわずかです。とても足りそうもないです」
と正直なところを云うと、
「足りないところは、私《わたし》が足して上げるから、構わない。何しろ有るだけ御出し」
と、思ったよりは平気である。自分はこの際一銭銅や二銭銅を勘定するのは、いかにも体裁《ていさい》がわるいと考えた上に、有るものを無いと隠すように取られては厭《いや》だから、懐《ふところ》から例の蟇口《がまぐち》を取り出して、蟇口ごと長蔵さんに渡した。この蟇口は鰐《わに》の皮で拵《こしら》えたすこぶる上等なもので、親父から貰う時も、これは高価な品であると云う講釈をとくと聴かされた贅沢物《ぜいたくもの》である。長蔵さんは蟇口を受け取って、ちょっと眺《なが》めていたが、
「ふふん、安くないね」
と云ったなり中味も改めずに腹掛の隠しへ入れちまった。中味を改めないところはよかったが、
「じゃ、私が切符を買って来て上げるから、ちゃんとここに待っていなくっちゃ、いけない。はぐれると、坑夫になれないんだからね」
と念を押して、ベンチを離れて切符口の方へすたすた行ってしまった。見ていると人込《ひとごみ》の中へ這入《はい》ったなり振り返りもしないで切符を買う番のくるのを待っている。さっき松原の掛茶屋を出てから、今先方《いまさきがた》までの長蔵さんは始終《しじゅう》自分の傍《そば》に食っついていて、たまに離れると便所からでも顔を出して呼ぶくらいであったのに、蟇口を受け取って、切符を買う時はまるで自分を忘れているように見受けられた。あんまり人が多くって、こっちへ眼をつける暇がなかったんだろう。これに反して自分は一生懸命に長蔵さんの後姿を見守って、札を買う順番が一人一人に廻って来るたんびに長蔵さんがだんだん切符口へ近づいて行くのを、遠くから妙な神経を起して眺《なが》めていた。蟇口は立派だが
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