持前だから存外自然に行われるものである。論より証拠《しょうこ》発奮して死ぬものは奇麗《きれい》に死ぬが、いじけて殺されるものは、どうも旨《うま》く死に切れないようだ。人の身の上はとにかく、こう云う自分が好い証拠である。梯子の途中で、ええ忌々《いまいま》しい、死んじまえと思った時は、手を離すのが怖《こわ》くも何ともなかった。無論例のごとくどきんなどとはけっしてしなかった。ところがいざ死のうとして、手を離しかけた時に、また妙な精神作用を承当《しょうとう》した。
自分は元来が小説的の人間じゃないんだが、まだ年が若かったから、今まで浮気に自殺を計画した時は、いつでも花々しくやって見せたいと云う念があった。短銃《ピストル》でも九寸五分《くすんごぶ》でも立派に――つまり人が賞《ほ》めてくれるように死んでみたいと考えていた。できるならば、華厳《けごん》の瀑《たき》まででも出向きたいなどと思った事もある。しかしどうしても便所や物置で首を縊《くく》るのは下等だと断念していた。その虚栄心が、この際突然首を出した。どこから出したか分らないが、出した。つまり出すだけの余地があったから出したに相違あるまいから、自分の決心はいかに真面目《まじめ》であったにしても、さほど差し逼《せま》ってはいなかったんだろう。しかしこのくらい断乎《だんこ》として、現に梯子段《はしごだん》から手を離しかけた、最中に首を出すくらいだから、相手もなかなか深い勢力を張っていたに違ない。もっともこれは死んで銅像になりたがる精神と大した懸隔《けんかく》もあるまいから、普通の人間としては別に怪しむべき願望とも思わないが、何しろこの際の自分には、ちと贅沢《ぜいたく》過ぎたようだ。しかしこの贅沢心のために、自分は発作性《ほっさせい》の急往生を思いとまって、不束《ふつつか》ながら今日まで生きている。全く今はの際《きわ》にも弱点を引張っていた御蔭である。
話すとこうなる。――いよいよ死んじまえと思って、体を心持|後《あと》へ引いて、手の握《にぎり》をゆるめかけた時に、どうせ死ぬなら、ここで死んだって冴《さ》えない。待て待て、出てから華厳《けごん》の瀑《たき》へ行けと云う号令――号令は変だが、全く号令のようなものが頭の中に響き渡った。ゆるめかけた手が自然と緊《しま》った。曇った眼が、急に明かるくなった。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]が燃えている。仰向《あおむ》くと、泥で濡《ぬ》れた梯子段が、暗い中まで続いている。是非共登らなければならない。もし途中で挫折《ざせつ》すれば犬死になる。暗い坑《あな》で、誰も人のいない所で、日の目も見ないで、鉱《あらがね》と同じようにころげ落ちて、それっきり忘れられるのは――案内の初さんにさえ忘れられるのは――よし見つかっても半獣半人の坑夫共に軽蔑《けいべつ》されるのは無念である。是非共登り切っちまわなければならない。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]は燃えている。梯子は続いている。梯子の先には坑が続いている。坑の先には太陽が照り渡っている。広い野がある、高い山がある。野と山を越して行けば華厳の瀑がある。――どうあっても登らなければならない。
左の手を頭の上まで伸ばした。ぬらつく段木を指の痕《あと》のつくほど強く握った。濡れた腰をうんと立てた。同時に右の足を一尺上げた。カンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》は暗い中を竪《たて》に動いて行く。坑は層一層《そういっそう》と明かるくなる。踏み棄《す》てて去る段々はしだいしだいに暗い中に落ちて行く。吐く息が黒い壁へ当る。熱い息である。そうして時々は白く見えた。次には口を結んだ。すると鼻の奥が鳴った。梯子はまだ尽きない。懸崖《けんがい》からは水が垂れる。ひらりとカンテラ[#「カンテラ」に傍点]を翻《ひるが》えすと、崖《がけ》の面《おもて》を掠《かす》めて弓形にじいと、消えかかって、手の運動の止まる所へ落ちついた時に、また真直に油煙を立てる。また翻《ひるが》えす。灯《ひ》は斜めに動く。梯子の通る一尺幅を外《はず》れて、がんがらがんの壁が眼に映《うつ》る。ぞっとする。眼が眩《くら》む。眼を閉《ねむ》って、登る。灯も見えない、壁も見えない。ただ暗い。手と足が動いている。動く手も動く足も見えない。手障足障《てざわりあしざわり》だけで生きて行く。生きて登って行く。生きると云うのは登る事で、登ると云うのは生きる事であった。それでも――梯子はまだある。
それから先はほとんど夢中だ。自分で登ったのか、天佑《てんゆう》で登ったのかほとんど判然しない。ただ登り切って、もう一段も握る梯子がないと云う事を覚《さと》った時に、坑の中へぴたりと坐った。
「どうした。上がって来たか。途中で死にゃしねえかと思って、――あんまり長えから。見に行こうか
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