。もっともこれが悟り始めの悟りじまいだと笑い話にもなるが、一度悟り出したら、その悟りがだいぶ長い事続いて、ついに鉱山の中で絶高頂に達してしまった。神妙の極に達すると、出るべき涙さえ遠慮して出ないようになる。涙がこぼれるほどだと譬《たとえ》に云うが、涙が出るくらいなら安心なものだ。涙が出るうちは笑う事も出来るにきまってる。
 不思議な事にこれほど神妙にあてられたものが、今はけろりとして、一切《いっさい》神妙気を出さないのみか、人からは横着者のように思われている。その時御世話になった長蔵さんから見たら、定めし増長した野郎だと思う事だろう。がまた今の朋友《ほうゆう》から評すると、昔は気の毒だったと云ってくれるかも知れない。増長したにしても気の毒だったにしても構わない。昔は神妙で今は横着なのが天然自然の状態である。人間はこうできてるんだから致し方がない。夏になっても冬の心を忘れずに、ぶるぶる悸《ふる》えていろったって出来ない相談である。病気で熱の出た時、牛肉を食わなかったから、もう生涯《しょうがい》ロースの鍋《なべ》へ箸《はし》を着けちゃならんぞと云う命令はどんな御大名だって無理だ。咽喉元《のどもと》過ぐれば熱さを忘れると云って、よく、忘れては怪《け》しからんように持ち掛けてくるが、あれは忘れる方が当り前で、忘れない方が嘘《うそ》である。こう云うと詭弁《きべん》のように聞えるが、詭弁でもなんでもない。正直正銘《しょうじきしょうめい》のところを云うんである。いったい人間は、自分を四角張った不変体《ふへんたい》のように思い込み過ぎて困るように思う。周囲の状況なんて事を眼中に置かないで、平押《ひらおし》に他人《ひと》を圧《お》しつけたがる事がだいぶんある。他人なら理窟《りくつ》も立つが、自分で自分をきゅきゅ云う目に逢《あ》わせて嬉《うれ》しがってるのは聞えないようだ。そう一本調子にしようとすると、立体世界を逃げて、平面国へでも行かなければならない始末が出来てくる。むやみに他人の不信とか不義とか変心とかを咎《とが》めて、万事万端向うがわるいように噪《さわ》ぎ立てるのは、みんな平面国に籍を置いて、活版に印刷した心を睨《にら》んで、旗を揚《あ》げる人達である。御嬢さん、坊っちゃん、学者、世間見ず、御大名、にはこんなのが多くて、話が分り悪《にく》くって、困るもんだ。自分もあの時|駆落《かけおち》をしずに、可愛らしい坊ちゃんとしておとなしく成人したなら、――自分の心の始終《しじゅう》動いているのも知らずに、動かないもんだ、変らないもんだ、変っちゃ大変だ、罪悪だなどとくよくよ思って、年を取ったら――ただ学問をして、月給をもらって、平和な家庭と、尋常な友達に満足して、内省の工夫を必要と感ずるに至らなかったら、また内省ができるほどの心機転換の活作用に見参《げんざん》しなかったならば――あらゆる苦痛と、あらゆる窮迫と、あらゆる流転《るてん》と、あらゆる漂泊《ひょうはく》と、困憊《こんぱい》と、懊悩《おうのう》と、得喪《とくそう》と、利害とより得たこの経験と、最後にこの経験をもっとも公明に解剖して、解剖したる一々を、一々に批判し去る能力がなかったなら――ありがたい事に自分はこの至大なる賚《たまもの》を有《も》っている、――すべてこれらがなかったならば、自分はこんな思い切った事を云やしない。いくら思い切った事を云ったって自慢にゃならない。ただこの通りだからこの通りだと云うまでである。その代り昔し神妙《しんびょう》なものが、今横着になるくらいだから、今の横着がいつ何時《なんどき》また神妙にならんとは限らない。――抜けそうな足を棒のように立てて聞くと、がんと鳴ってる耳の中へ、遠くからさあさあ水音が這入《はい》ってくる。自分はますます神妙になった。
 この状態でだいぶ来た。何里だか見当《けんとう》のつかないほど来た。夜道だから平生《へいぜい》よりは、ただでさえ長く思われる上へ持ってきて、凸凹《でこぼこ》の登りを膨《ふくら》っ脛《ぱぎ》が腫《は》れて、膝頭《ひざがしら》の骨と骨が擦《す》れ合って、股《もも》が地面《じびた》へ落ちそうに歩くんだから、長いの、長くないのって――それでも、生きてる証拠には、どうか、こうか、長蔵さんの尻を五六間と離れずに、やって来た。これはただ神妙に自己を没却した諦《あきらめ》の体《てい》たらくから生じた結果ではない。五六間以上|後《おく》れると、長蔵さんが、振り返って五六歩ずつは待合してくれるから、仕方なしに追いつくと、追いつかない先に向うはまた歩き出すんで、やむを得ずだらだら、ちびちびに自己を奮興《ふんこう》させた成行《なりゆき》に過ぎない。それにしても長蔵さんは、よく後《うしろ》が見えたもんだ。ことに夜中《やちゅう》である。右も左も黒い木
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