その他いろいろの点において、全くこの若い男と同等すなわち馬鹿であったのである。もし強《し》いて違うところを詮議《せんぎ》したら赤毛布を被《かぶ》ってるのと絣《かすり》を着ているとの差違《ちがい》くらいなものだろう。だから馬鹿と云うのは、自分と同じく気の毒な人と云う意味で、馬鹿のうちに少しぐらいは同情の意を寓《ぐう》したつもりである。
 で、馬鹿が二人長蔵さんに尾《つ》いていっしょに銅山まで引っ張られる事になった。しかるに自分が赤毛布と肩を並べて歩き出した時、ふと気がついて見ると、さっきのつまらない心持ちがもう消えていた。どうも人間の了見《りょうけん》ほど出たり引っ込んだりするものはない。有るんだなと安心していると、すでにない。ないから大丈夫と思ってると、いや有る。有るようで、ないようでその正体はどこまで行っても捕まらない。その後《のち》さる温泉場で退屈だから、宿の本を借りて読んで見たらいろいろ下らない御経の文句が並べてあったなかに、心は三世にわたって不可得《ふかとく》なりとあった。三世にわたるなんてえのは、大袈裟《おおげさ》な法螺《ほら》だろうが、不可得《ふかとく》と云うのは、こんな事を云うんじゃなかろうかと思う。もっともある人が自分の話を聞いて、いやそれは念《ねん》と云うもので心《こころ》じゃないと反対した事がある。自分はいずれでも御随意だから黙っていた。こんな議論は全く余計な事だが、なぜ云いたくなるかというと、世間には大変利口な人物でありながら、全く人間の心を解していないものがだいぶんある。心は固形体だから、去年も今年も虫さえ食わなければ大抵同じもんだろうくらいに考えているには弱らせられる。そうして、そう云う呑気《のんき》な料簡《りょうけん》で、人を自由に取り扱うの、教育するの、思うようにして見せるのと騒いでいるから驚いちまう。水だって流れりゃ返って来やしない。ぐずぐずしていりゃ蒸発しちまう。
 とにかくこの際は、赤毛布と並んで歩き出した時、もう先刻《さっき》のつまらない考えが蒸発していたと云う事だけを記憶して置いて貰《もら》えばいい。――そうして吾《われ》ながら驚いたのは、どうも赤毛布《あかげっと》と並んで歩くのが愉快になって来た。もっともこの男は茨城《いばらき》か何かの田舎《いなか》もので、鼻から逃げる妙な発音をする。芋《いも》の事を芋《えも》と訓じたのはこ
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