自分は今に長蔵さんが恰好《かっこう》な所を見つけて、晩食《ばんめし》をしたために自分を連れ込む事と自信して、気を永く辛抱しながら、長い町を北へ北へと下って行った。
自分は空腹を自白したが、倒れるほどひもじくは無かった。胃の中にはまだ先刻《さっき》の饅頭《まんじゅう》が多少残ってるようにも感ぜられた。だから歩けば歩かれる。ただ汽車を下りるや否や滅《め》り込《こ》みそうな精神が、真直《まっすぐ》な往来の真中に抛《ほう》り出されて、おやと眼を覚したら、山里の空気がひやりと、夕日の間から皮膚を冒《おか》して来たんで、心機一転の結果としてここに何か食って見たくなったんである。したがって食わなければ食わないでも済む。長蔵さん何か食わしてくれませんかと云うほど苦しくもなかった。しかし何だか口が淋《さび》しいと見えて、しきりに縄暖簾《なわのれん》や、お|煮〆《にしめ》や、御中食所《おちゅうじきどころ》が気にかかる。相手の長蔵さんがまた申し合せたように右左と覗《のぞ》き込むので、こっちはますます食意地《くいいじ》が張ってくる。自分はこの長い町を通りながら、自分らに適当と思う程度の一膳《いちぜん》めし屋をついに九軒まで勘定した。数えて九軒目に至ったら、さしもに長い宿《しゅく》はとうとうおしまいになり掛けて、もう一町も行けば宿外《しゅくはず》れへ出抜《ずぬ》けそうである。はなはだ心細かった。時にふと右側を見ると、また酒めしと云う看板に逢着《ほうちゃく》した。すると自分の心のうちにこれが最後だなと云う感じが起った。それがためか煤《すす》けた軒の腰障子《こししょうじ》に、肉太に認《したた》めた酒めし[#「酒めし」に傍点]、御肴[#「御肴」に傍点]と云う文字がもっとも劇烈な印象をもって自分の頭に映じて来た。その映じた文字がいまだに消えない。酒の字でも、めし[#「めし」に傍点]の字でも、御肴《おんさかな》の字でもありあり見える。この様子では、いくら耄碌《もうろく》してもこの五字だけは、そっくりそのまま、紙の上に書く事が出来るだろう。
自分が最後の酒、めし、御肴をしみじみ見ていると、不思議な事に長蔵さんも一生懸命に腰障子の方に眼をつけている。自分はさすが頑強《がんきょう》の長蔵さんも今度こそ食いに這入《はい》るに違なかろうと思った。ところが這入らない。その代りぴたりと留った。見ると腰障子の奥の
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