ていなかった。それからあとは、のそのそ下へ降りて行って、顔を洗って、南京米《ナンキンまい》を食う。万事|昨日《きのう》の通りだから、省《はぶ》いてしまう。九時の例刻を待ちかねて病院へ出掛ける。病院は一昨日《おととい》山を登って来る時に見た、青いペンキ塗の建物と聞いているから道も家《うち》も間違えようがない。飯場《はんば》を出て二丁ばかり行くと、すぐ道端《みちばた》にある。木造ではあるがなかなか立派な建築で、広さもかなりだけに、獰猛組《どうもうぐみ》とはまるで不釣合である。野蛮人が病気をするんでさえすでに不思議なくらいだのに、病気に罹《かか》ったものを治療してやるための器械と薬品と医者と建物を具《そな》えつけたんだから、世の中は妙だと云う感じがすぐに起る。まるで泥棒が金を出し合って、小学校を建てて子弟を通学させてるようなもんだ。文明と蒙昧《もうまい》の両極端がこのペンキ塗の青い家の中で出逢《であ》って、一方が一方へ影響を及ぼすと、蒙昧がますますぴんぴん蒙昧になってくる。下手《へた》に食い違った結果が起るもんだ。と考えながら歩いて来ると、また鬼共が窓から首を出して眺《なが》めている。せっかくの考えもこの気味のわるい顔を見上げるとたちまち崩《くず》れてしまう。あの顔のなかに安さんのようなのが、たった一つでもあれば、生き返るほど嬉しいだろうに、どれもこれも申し合せたように獰猛の極致を尽している。あれじゃ、どうしたって病院の必要があるはずがないとまで思った。
 天気だけは好都合にすっかり晴れた。赤土を劈《さ》いたような山の壁へ日が当る。昨日、一昨日の雨を吸込んだ土は、東から差す日を受けて、まだ乾かない。その上照る日をいくらでも吸い込んで行く。景色《けしき》は晴れがましいうちに湿《しっ》とりと調子づいて、長屋と長屋の間から、下の方の山を見ると、真蒼《まっさお》な色が笑《え》み割れそうに濃く重なっている。風は全く落ちた。昨夕《ゆうべ》と今朝とではほとんど十五度以上も違うようである。道傍《みちばた》に、たった一つ蒲公英《たんぽぽ》が咲いている。もったいないほど奇麗な色だ。これも獰猛とはまるで釣り合ない。
 病院へ着いた。和土《たたき》の廊下が地面と擦《す》れ擦れに五六間続いている突き当りに、診察室と云う札が懸《かか》って、手前の右手に控所と書いてある。今云った一間幅の廊下を横切って
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