ものがまるでなかった。ただ口惜《くや》しくって、苦しくって、悲しくって、腹立たしくって、そうして気の毒で、済《す》まなくって、世の中が厭《いや》になって、人間が棄《す》て切れないで、いても立っても、いたたまれないで、むちゃくちゃに歩いて、どてら[#「どてら」に傍点]に引っ掛って、揚饅頭《あげまんじゅう》を喰ったばかりである。昨日は昨日、今日は今日、一時間前は一時間前、三十分後は三十分後、ただ眼前の心よりほかに心と云うものがまるでなくなっちまって、平生から繋続《つなぎ》の取れない魂がいとどふわつき出して、実際あるんだか、ないんだかすこぶる明暸《めいりょう》でない上に、過去一年間の大きな記憶が、悲劇の夢のように、朦朧《もうろう》と一団の妖氛《ようふん》となって、虚空《こくう》遥《はるか》に際限もなく立て罩《こ》めてるような心持ちであった。
 そこで平生の自分なら、なぜ坑夫になれば結構なんだとか、どうして坑夫より下等なものがあるんだとか、自分は儲《もう》ける事ばかりを目的に働く人間じゃないとか、儲けさえすりゃどこがいいんだとか、何とかかとか理窟《りくつ》を捏《こ》ねて、出来るだけ自己を主張しなければ勘弁《かんべん》しないところを、ただおとなしく控えていた。口だけおとなしいのではない、腹の中からまるで抵抗する気が出なかったのである。
 何でもこの時の自分は、単に働けばいいと云う事だけを考えていたらしい。いやしくも働きさえすれば、――いやしくもこのふわふわの魂が五体のうちに、うろつきながらもいられさえすれば、――要するに死に切れないものを、強《しい》て殺してしまうほどの無理を冒《おか》さない以上は、坑夫以上だろうが、坑夫以下だろうが、儲かろうが、儲かるまいが、とんと問題にならなかったものと見える。ただ働く口さえ出来ればそれで結構であるから、働き方の等級や、性質や、結果について、いかに自分の意見と相容《あいい》れぬ法螺《ほら》を吹かれても、またその法螺が、単に自分を誘致するためにする打算的の法螺であっても、またその法螺に乗る以上は理知の人間として自分の人格に尠《すくな》からぬ汚点を貽《のこ》す恐れがあっても、まるで気にならなかったんだろう。こんな時には複雑な人間が非情に単純になるもんだ。
 その上坑夫と聞いた時、何となく嬉《うれ》しい心持がした。自分は第一に死ぬかも知れないと云
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