にか曇った空が晴れて、細い月が出ている。路は存外明るい、その代り大変寒い。袷《あわせ》を通して、襯衣《シャツ》を通して、蒲鉾形《かまぼこなり》の月の光が肌まで浸《し》み込んで来るようだ。両袖を胸の前へ合せて、その中へ鼻から下を突込んで肩をできるだけ聳《そび》やかして歩行《ある》き出した。身体《からだ》はいじけているが腹の中はさっきよりだいぶん豊かになった。何の当分のうちだ。馴《な》れればそう苦にする事はない。何しろ一万余人もかたまって、毎日毎日いっしょに働いて、いっしょに飯を食って、いっしょに寝ているんだから、自分だって七日も練習すれば、一人前《いちにんまえ》に堕落する事はできるに違ない。――この時自分の頭の中には、堕落の二字がこの通りに出て来た。しかしただこの場合に都合のいい文字として湧《わ》いて出たまでで、堕落の内容を明かに代表していなかったから、別に恐ろしいとも思わなかった。それで、比較的元気づいて飯場《はんば》へ帰って来た。五六間手前まで来ると、何だかわいわい云っている。外は淋《さび》しい月である。自分は家《うち》の騒ぎを聞いて、淋しい月を見上げて、しばらく立っていた。そうしたら、どうも這入《はい》るのが厭《いや》になった。月を浴びて外に立っているのも、つらくなった。安さんの所へ行って泊めてもらいたくなった。一歩引き返して見たが、あんまりだと気を取り直して、のそのそ長屋へ這入った。横手に広い間《ま》があって、上り口からは障子《しょうじ》で立て切ってある。電気灯が頭の上にあるから影は一つも差さないが、騒ぎはまさにこの中《うち》から出る。自分は下駄《げた》を脱いで、足音のしないように、障子の傍《そば》を通って、二階へ上がった。段々を登り切って、大きな部屋を見渡した時、ほっと一息ついた。部屋には誰もいない。
ただ金《きん》さんが平たく煎餅《せんべい》のようになって寝ている。それから例の帆木綿《ほもめん》にくるまって、ぶら下がってる男もいる。しかし両方とも極《きわ》めて静かだ。いてもいないと同じく、部屋は漠然《ばくぜん》としてただ広いものだ。自分は部屋の真中まで来て立ちながら考えた。床を敷いて寝たものだろうか、ただしは着のみ着のままで、ごろりと横になるか、または昨夕《ゆうべ》の通り柱へ倚《もた》れて夜を明そうか。ごろ寝は寒い、柱へ倚《よ》り懸《かか》るのは苦しい。
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