ゃいられない。となると後できっと敵《かたき》を打つだろう。無責任が露見《ばれ》るのは痛快だが――自分はけっして寛大の念に制せられたなんて耶蘇教流《ヤソきょうりゅう》の嘘《うそ》はつかない。――そこまでは痛快だが、敵打《かたきうち》は大《おおい》に迷惑する。実のところ自分はこの迷惑の念に制せられた。それで、
「ええ、いろいろ路を聞いて出て来ました」
とおとなしい返事をして置いた。
初さんは半分失望したような、半分安心したような顔つきをしたが、やがて石から腰を上げて、
「親方の所へ行こう」
とまた歩き出した。自分は黙って尾《つ》いて行った。昨日《きのう》親方に逢《あ》ったのは飯場《はんば》だが、親方の住んでる所は別にある。長屋の横を半丁ほど上《のぼ》ると、石垣で二方の角《かど》を取って平《なら》した地面の上に二階建がある。家はさほど見苦しくもないが、家のほかには木も庭もない。相変らず二階の窓から悪魔が首を出している。入口まで来て、初さんが外から声を掛けると、窓をがらりと開けて、飯場頭《はんばがしら》が顔を出した。米利安《めりやす》の襯衣《シャツ》の上へどてら[#「どてら」に傍点]を着たままである。
「帰《けえ》ったか。御苦労だった。まああっちへ行って休みねえ」
と云うが早いか初さんは消えてなくなった。後《あと》は二人になる。親方は窓の中から、自分は表に立ったまま、談話《はなし》をした。
「どうです」
「大概見て来ました」
「どこまで降りました」
「八番坑まで降りました」
「八番坑まで。そりゃ大変だ。随分ひどかったでしょう。それで……」
と心持首を前の方へ出した。
「それで――やっぱりいるつもりです」
「やっぱり」
と繰り返したなり、飯場頭はじっと自分の顔を見ていた。自分も黙って立っていた。二階からは依然として首が出ている。おまけに二つばかり殖《ふ》えた。この顔を見ると、厭《いや》で厭でたまらない。飯場へ帰ってから、この顔に取り巻かれる事を思い出すと、ぞっとする。それでもいる気である。どんな辛抱をしてもいる気である。しかし「やっぱりいるつもりです」と断然答えて置いて、二階の顔を不意に見上げた時には、さすがに情なかった。こんな奴といっしょに置いてくれと、手を合せて拝まなければ始末がつかないようになり下がったのかと思うと、身体《からだ》も魂も塩を懸《か》けた海鼠《なまこ》の
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