う》に分らなかったが、何しろ、安さんを追い出すような社会だから碌《ろく》なもんじゃなかろうと考えた。安さんを贔屓《ひいき》にするせいか、どうも安さんが逃げなければならない罪を犯したとは思われない。社会の方で安さんを殺したとしてしまわなければ気が済まない。その癖今云う通り社会とは何者だか要領を得ない。ただ人間だと思っていた。その人間がなぜ安さんのような好い人を殺したのかなおさら分らなかった。だから社会が悪いんだと断定はして見たが、いっこう社会が憎らしくならなかった。ただ安さんが可哀想《かわいそう》であった。できるなら自分と代ってやりたかった。自分は自分の勝手で、自分を殺しにここまで来たんである。厭《いや》になれば帰っても差支《さしつかえ》ない。安さんは人間から殺されて、仕方なしにここに生きているんである。帰ろうたって、帰る所はない。どうしても安さんの方が気の毒だ。
安さんは堕落したと云った。高等教育を受けたものが坑夫になったんだから、なるほど堕落に違ない。けれどもその堕落がただ身分の堕落ばかりでなくって、品性の堕落も意味しているようだから痛ましい。安さんも達磨《だるま》に金を注《つ》ぎ込むのかしら、坑《あな》の中で一六勝負《いちろくしょうぶ》をやるのかしら、ジャンボー[#「ジャンボー」に傍点]を病人に見せて調戯《からか》うのかしら、女房を抵当に――まさか、そんな事もあるまい。昨日《きのう》着き立ての自分を見て愚弄《ぐろう》しないもののないうちで、安さんだけは暗い穴の底ながら、十分自分の人格を認めてくれた。安さんは坑夫の仕事はしているが、心《しん》までの坑夫じゃない。それでも堕落したと云った。しかもこの堕落から生涯《しょうがい》出る事ができないと云った。堕落の底に死んで活《い》きてるんだと云った。それほど堕落したと自覚していながら、生きて働いている。生きてかんかん敲《たた》いている。生きて――自分を救おうとしている。安さんが生きてる以上は自分も死んではならない。死ぬのは弱い。……
こう決心をして、何でも構わないから、ひとまず坑夫になった上として、できるだけ急ぎ足で帰って来ると、長屋の半丁ばかり手前に初さんが石へ腰を掛けて待っている。雨は歇《や》んだ。空はまだ曇っているが、濡《ぬ》れる気遣《きづかい》はない。山から風が吹いて来る。寒くても、世界の明かるいのが、非常に嬉
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