している。おまけに顔もよく見えない。ちょうどいいから少し休んで行こうと云う気が起った。幸い俵がある。この上へ尻をおろせば、持って来いの腰掛になる。自分はどさっとアテシコ[#「アテシコ」に傍点]を俵の上に落した。すると突然かあんかあんがやんだ。坑夫の影が急に長く高くなった。鑿《のみ》を持ったままである。
「何をしやがるんでい」
鋭い声が穴いっぱいに響いた。自分の耳には敲《たた》き込まれるように響いた。高い影は大股に歩いて来る。
見ると、足の長い、胸の張った、体格の逞《たくま》しい男であった。顔は背の割に小さい。その輪廓《りんかく》がやや判然する所まで来て、男は留まった。そうして自分を見下《みおろ》した。口を結んでいる。二重瞼《ふたえまぶた》の大きな眼を見張っている。鼻筋が真直《まっすぐ》に通っている。色が赭黒《あかぐろ》い。ただの坑夫ではない。突然として云った。
「貴様は新前《しんめえ》だな」
「そうです」
自分の腰はこの時すでに俵を離れていた。何となく、向うから近づいてくる坑夫が恐ろしかった。今まで一万余人の坑夫を畜生のように軽蔑《けいべつ》していたのに、――誓って死んでしまおうと覚悟をしていたのに、――大股に歩いて来た坑夫がたちまち恐ろしくなった。しかし、
「何でこんな所を迷子《まご》ついてるんだ」
と聞き返された時には、やや安心した。自分の様子を見て、故意に俵の上へ腰をおろしたんでないと見極《みきわ》めた語調である。
「実は昨夕《ゆうべ》飯場《はんば》へ着いて、様子を見に坑《あな》へ這入《はい》ったばかりです」
「一人でか」
「いいえ、飯場頭《はんばがしら》から人をつけてくれたんですが……」
「そうだろう、一人で這入れる所じゃねえ。どうしたその案内は」
「先へ出ちまいました」
「先へ出た? 手前《てめえ》を置き去りにしてか」
「まあ、そうです」
「太《ふて》え野郎だ。よしよし今に己《おれ》が送り出してやるから待ってろ」
と云ったなり、また鑿《のみ》と槌《つち》をかあんかあん鳴らし始めた。自分は命令の通り待っていた。この男に逢《あ》ったら、もう一人で出る気がなくなった。死んでも一人で出て見せると威張った決心が、急にどこへか行ってしまった。自分はこの変化に気がついていた。それでも別に恥かしいとも思わなかった。人に公言した事でないから構わないと思った。その後《ご
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