くと見た。自分は案《あん》の定《じょう》釣り出された。
「明日《あした》っから、ここで働くんでしょうか。働くとすれば、何時間水に漬かってる――漬かってれば義務が済むんですか」
「そうさなあ」
と考えていた初さんは、
「一昼夜に三回の交替だからな」
と説明してくれた。一昼夜に三回の交替ならひとくぎり八時間になる。自分は黒い水の上へ眼を落した。
「大丈夫だ。心配しなくってもいい」
初さんは突然慰めてくれた。気の毒になったんだろう。
「だって八時間は働かなくっちゃならないんでしょう」
「そりゃきまりの時間だけは働かせられるのは知れ切ってらあ。だが心配しなくってもいい」
「どうしてですか」
「好《い》いてえ事よ」
と初さんは歩き出した。自分も黙って歩き出した。二三歩水をざぶざぶ云わせた時、初さんは急に振り返った。
「新前《しんめえ》は大抵二番坑か三番坑で働くんだ。よっぽど様子が分らなくっちゃ、ここまで下りちゃ来られねえ」
と云いながら、にやにやと笑った。自分もにやにやと笑った。
「安心したか」
と初さんがまた聞いた。仕方がないから、
「ええ」
と返事をして置いた。初さんは大得意であった。時にどぶどぶ動く水が、急に膝まで減った。爪先で探ると段々がある。一つ、二つと勘定すると三つ目で、水は踝《くろぶし》まで落ちた。それで平らに続いている。意外に早く高い所へ出たんで、非常に嬉《うれ》しかった。それから先は、とんとん拍子《びょうし》に嬉しくなって、曲れば曲るほど地面が乾いて来る。しまいにはぴちゃりとも音のしない所へ出た。時に初さんが器械を見る気があるかと尋ねたが、これは諸方のスノコ[#「スノコ」に傍点]から落ちて来た鉱《あらがね》を聚《あつ》めて、第一坑へ揚げて、それから電車でシキ[#「シキ」に傍点]の外へ運び出す仕掛を云うんだと聞いて、頭から御免蒙《ごめんこうぶ》った。いくら面白く運転する器械でも、明日《あす》の自分に用のない所は見る気にならなかった。器械を見ないとするとこれで、まあ坑内の模様を一応見物した訳になる。そこで案内の初さんが帰るんだと云う通知を与えてくれた。腰きり水に漬《つ》かるのは、いかな初さんも一度でたくさんだと見えて、帰りには比較的|濡《ぬ》れないで済む路を通ってくれた。それでも十間ほどは腫《ふく》ら脛《はぎ》まで水が押し寄せた。この十間を通るときに、様子を知
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