らどてら[#「どてら」に傍点]がさっきから儲かる儲かると云うのを聞くたんびに何のためだろうと不思議に思っていた。無論|癪《しゃく》には障《さわ》らない。癪に障るような身分でもなし、境遇でもないから、いっこう平気ではいたが、これが人間に対する至大の甘言で、勧誘の方法として、もっとも利目《ききめ》のあるものだとは夢にも想《おも》い至らなかった。そこで、どてら[#「どてら」に傍点]から笑われちまった。笑われてさえいっこう通じなかった。今考えると馬鹿馬鹿しい。
 一種特別な笑い方をしたどてら[#「どてら」に傍点]は、その笑いの収まりかけに、
「お前さん、全体今まで働いた事があんなさるのかね」
と少し真面目な調子で聞いた。働くにも働かないにも、昨日《きのう》自宅《うち》を逃げ出したばかりである。自分の経験で働いた試しは撃剣《げっけん》の稽古《けいこ》と野球の練習ぐらいなもので、稼《かせ》いで食った事はまだ一日もない。
「働いた事はないです。しかしこれから働かなくっちゃあならない身分です」
「そうだろう。働いた事がなくっちゃ……じゃ、君、まだ儲けた事もないんだね」
と当り前の事を聞いた。自分は返事をする必要がないから、黙ってると、茶店のかみさんが、菓子台の後《うしろ》から、
「働くからにゃ、儲けなくっちゃあね」
と云いながら、立ち上がった。どてら[#「どてら」に傍点]が、
「全くだ。儲けようったって、今時そう儲け口が転がってるもんじゃない」
と幾分か自分に対して恩に被《き》せるように答えるのを、
「そうさ」
と幾分かさげすむように聞き流して、裏へ出て行った。このそうさ[#「そうさ」に傍点]が妙に気になって、ことによると、まだその後《あと》があるかも知れないと思ったせいか、何気なく後姿《うしろかげ》を見送っていると、大きな黒松の根方《ねがた》のところへ行って、立小便《たちしょうべん》をし始めたから、急に顔を背《そむ》けて、どてら[#「どてら」に傍点]の方を向いた。どてら[#「どてら」に傍点]はすぐ、
「私《わたし》だから、お前さん、見ず知らずの他人にこんな旨《うま》い話をするんだ。これがほかのものだったら、受合ってただじゃ話しっこない旨い口なんだからね」
とまた恩に被《き》せる。自分は、面倒くさいからおとなしく、
「ありがたいです」
と四角張って答えて置いた。
「実はこう云う口な
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