わ》くなったもんだから、初さんの影は網膜に映じたなり忘れちまったのが、段木に噛りついて眼を閉るや否や生き返ったんだろう。ただしそう云う事が学理上あり得るものか、どうか知らない。その当時は夢中である。坑《あな》は暗い、命は惜しい、頭は乱れている。生きてるか死んでるか判然しない。そこへ初さんが降りて行く。眼の中で降りて行くんだか、足の下で降りて行くんだかめちゃくちゃであった。が不思議な事に、眼を開けるや否やまた下を見た。するとやはり初さんが降りている。しかも切っ立った壁の向う側を降りているようだ。今度は二度目のせいか、落ちるほど眩暈《めまい》もしなかったんで、よくよく眸《ひとみ》を据《す》えて見ると、まさに向う側を降りて行く。はてなと思った。ところへカンテラ[#「カンテラ」に傍点]がまたじいと鳴った。保証つきの灯火《あかり》だが、こうなるとまた心細い。初さんはずんずん行くようだ。自分もここに至れば、全速力で降りるのが得策だと考えついた。そこでぬるぬるする段木《だんぎ》を握り更《か》え、握り更えてようやく三間ばかり下がると、足が土の上へ落ちた。踏んで見たがやッぱり土だ。念のため、手を離さずに足元の様子を見ると、梯子《はしご》は全く尽きている。踏んでいる土も幅一尺で切れている。あとは筒抜《つつぬけ》の穴だ。その代り今度は向側《むこうがわ》に別の梯子がついている。手を延ばすと届くように懸《か》けてある。仕方がないから、自分はまたこの梯子へ移った。そうして出来るだけ早く降りた。長さは前のと同様である。するとまた逆の方向に、依然として梯子が懸けてある。どうも是非に及ばない。また移った。やっとの思いでこれも片づけると、新しい梯子はもとのごとく向側に懸っている。ほとんど際限がない。自分が六つめの梯子まで来た時は、手が怠《だる》くなって、足が悸《ふる》え出して、妙な息が出て来た。下を見ると初さんの姿はとくの昔に消えている。見れば見るほど真闇《まっくら》だ。自分のカンテラ[#「カンテラ」に傍点]へはじいじいと点滴《しずく》が垂れる。草鞋《わらじ》の中へは清水《しみず》がしみ込んで来る。
 しばらく休んでいたら、手が抜けそうになった。下り出すと足を踏み外《はず》しかねぬ。けれども下りるだけ下りなければ、のめって逆《さか》さに頭を割るばかりだと思うと、どうか、こうか、段々を下り切る力が、どっ
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