決する場合である。性格が水準以下に下落する場合である。平生《へいぜい》築き上げたと自信している性格が、めちゃくちゃに崩《くず》れる場合のうちでもっとも顕著《けんちょ》なる例である。――自分の無性格論はここからも出ている。
前《ぜん》申す通り自分は初さんの顔を見た。すると、下《お》りようじゃないかと云う親密な情合《じょうあい》も見えない。下りなくっちゃ御前のためにならないと云う忠告の意も見えない。是非下ろして見せると云う威嚇《おどし》もあらわれていない。下りたかろうと焦《じ》らす気色《けしき》は無論ない。ただ下りられまいと云う侮辱《ぶべつ》の色で持ち切っている。それは何ともなかった。しかしその色の裏面には落第と云う切実な問題が潜《ひそ》んでいる。この場合における落第は、名誉より、品性より、何よりも大事件である。自分は窒息しても下りなければならない。
「下りましょう」
と思い切って、云った。初さんは案に相違の様子であったが、
「じゃ、下りよう。その代り少し危ないよ」
と穏かに同意の意を表《ひょう》した。なるほど危ないはずだ。九十度の角度で切っ立った、屏風《びょうぶ》のような穴を真直に下りるんだから、猿の仕事である。梯子《はしご》が懸《かか》ってる。勾配《こうばい》も何にもない。こちらの壁にぴったり食っついて、棒を空《くう》にぶら下げたように、覗《のぞ》くと端《さき》が見えかねる。どこまで続いてるんだか、どこで縛《しば》りつけてあるんだか、まるで分らない。
「じゃ、己《おれ》が先へ下りるからね。気をつけて来たまえ」
と初さんが云った。初さんがこれほど叮嚀《ていねい》な言葉を使おうとは思いも寄らなかった。おおかた神妙《しんびょう》に下りましょうと出たんで、幾分《いくぶん》か憐愍《れんみん》の念を起したんだろう。やがて初さんは、ぐるりと引っ繰り返って、正式に穴の方へ尻を向けた。そうして屈《しゃが》んだ。と思うと、足からだんだん這入《はい》って行く。しまいには顔だけが残った。やがてその顔も消えた。顔が出ている間は、多少の安心もあったが、黒い頭の先までが、ずぼりと穴へはまった時は、さすがに心配なのと心細いのとで、じっとしていられなくって、足をつま立てるようにして、上から見下《みおろ》した。初さんは下りて行く。黒い頭とカンテラ[#「カンテラ」に傍点]の灯《ひ》だけが見える。その時
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